自分が必要とされることを目的にしてはならない

他人から感謝されたり、必要とされたりすることは、とても嬉しいことです。
先日も、就職した方の親御さんから「大久保さんの支援のおかげで」と言われました。
でも、こんなとき、私は心では快を感じつつも、頭では自分を律しないといけないと思うのです。

こういった言葉は、麻薬のようなものだと思っています。
それは、この“必要とされる”言葉によって、麻痺していく支援者たちを多く見てきたからです。
最初は本人のためにと頑張っている支援者も、だんだんと必要とされる自分に満足していきます。
「こんなことができるようになった」
「課題が解決して、以前よりも穏やかに過ごせるようになった」
という本人の変化に喜びを感じていたはずなのに、喜びのベクトルが自分自身に向いていくのです。
そして、「この人にとって、自分は必要な存在」というような思考になっていき、支援に「やってやってる」オーラが出てきます。

「やってやっている」オーラが出てきた支援者って、結果を求めなくなるんですね。
本人の変化という結果ではなく、どれくらいやってやったか、に目が向くようになります。
つまり、かけた労力ですね。
「こんな支援グッズを作った」
「こんなに〇〇のことを大事に思ってる。一生懸命に考えている」
とか、必要とされている度を自分で上げて、嬉しくなっちゃうんです。
だから、ギョーカイ主催の会議は内容がなくて、とにかく大勢の人を集めて、とにかく長いんです。
労力を掛ければ掛ける程、みんな、自分自身で嬉しくなっちゃうから。
そして、残業を自慢し、「こんなに忙しいよ」と恥ずかしげもなく言っちゃうんです。

「あなたを必要としています」という麻薬がよく利くのは、当然、自分自身が必要とされていると感じられていない人です。
今まで歩んできた道の中で、今の生活の中で、必要とされた経験がない人、必要としてほしかった人、ほしい人。
また、自分自身の中に軸がなくて、他人からのリアクションや評価で自分自身の輪郭を確認するような人も。

初めは「良い支援者だな」と思っていた人も、地域に根付き、「先生」「先生」と呼ばれているうちに、講釈ばかり垂れるばかりで、全然手を動かさなくなったというのをたくさん見てきました。
今まで何度、がっかりしたか分かりませんね。
ですから、自分はそうならないようにするためにも、「勘違いするなよ」と自分に言うのです。

「自分はきっかけであり、補助でしかない!」
「本人が変わろうと思わなければ、動かなければ、未来は変わらなかった!」
「仕事は結果を出すのが当然であり、結果のみで評価されるべき!」
と。
そして「私の仕事は、その人の発達、成長を援助することが目的ではなく、成長、発達した人達が社会で資質を活かし、より良い地域や社会を作っていくこと。つまり、発達障害の人達の発達援助を通して、社会貢献していくことこそが目的である!」

コメント

このブログの人気の投稿

【No.1358】体軸が育つ前の子と、育った後の子

【No.1364】『療育整体』を読んで

【No.1369】心から治ってほしいと思っている人はほとんどいない