【No.1162】子ども達を守れるのは親御さんしかいない

先週末は出張で東京に行っていましたが、いずれも良い天気で、着ていった長袖が暑いくらいでした。
あんな暑い中、そして気持ちよい日差しの中、マスクするなんてもったいないですね(今回もマスク警察には会いませんでした)。
どこもかしこも人は多く、ジム用のウェアを買いに行った新宿のデパートでは、店員さんが激おこで「明日から休業ですよ、百合子様のせいで(怒)」と言っていて、私がうんうんと頷きながら時々「デパートでクラスター起きてないんだから、無視すればいいんですよ」と慰める始末。
ツンデレ百合子はストレートにモノが言えないもんだから、ちゃんと東京に行き、あちこちを移動して仕事をしながら、いろいろ買い物や食事をしてお金を使ってきましたよ。


1400万人都市の東京で、重症者数が50人前後。
で、どうして医療崩壊するのかがわかりませんが、それにしても大阪の重症者数が多い気がします。
でも、よく考えると、この重症者という定義って東京と大阪は同じなのでしょうか。
調べてみると、①ICUで治療 ②人工呼吸器を使用 ③エクモを使用 のいずれかに該当する場合が厚労省が定めた重症者の定義になっていました。
これをみて思ったのですが、病状が重症度を決めるわけではないんですね。
ということは、新コロの症状が重いからではなく、「高齢者だから」「基礎疾患を持っているから」「まだ空いているから(?)」という現場の判断で、たとえ危険な状態ではなかったとしても、人工呼吸器がつけられていたら重症者にカウントされる場合があるということではないでしょうか。
重症者ベッドは「より多くの加算が税金からつけられている」ということは、今までの日本の医療の流れから言えば、できるだけ埋めたくなる、常に満床にしておきたいような気がします。


「重症者により多くの加算が付く」というのは障害者福祉でも同じです。
国としても、より重く、介護等のニーズが大きい方達を積極的にケアしてほしい、と願うのは当然です。
だから、重い症状、重い介護度の人に、お金の重みをつける。
一方で現場としては、馬鹿正直に重い人ばかりをみるわけではありません。
人権と労働基準法がない福祉の現場で、働く人を集めるのは大変です。
たとえ見つけたとしても、すぐに辞めていくような職場です。
そんな職場で、儲かるからと言って重度の人ばかり受け入れられるわけはないのです。
専門性も、人も、足りないのですから。
だけれども、経営としては「重度の人」が欲しい。
そこでペン先を嘗めるのです。
本当は軽度の人を重度にする。
軽度だけれども、問題行動があればそれをオーバーに表現する。
「二次障害」というワードは、現場の支援者にとっても使い勝手が良いわけです。
施設利用者は、あたかも施設内で問題が大きいような報告をする。
それを親御さんが、または支援者が直接、医師や心理士に伝える。
で、軽度の人が重度に早変わり。


ギョーカイがなぜ、「二次障害」という概念を広めようとするのか。
それは予防的な意味合いから、早い段階で支援に繋げようとする意図と、軽度やそもそも発達が遅れているだけで問題のないような子を、重度や支援対象に移行する可能性を示すことで、いつでも囲い込めるようにしておくためです。
誰にでもくる思春期の揺れを、誰にでもある学校や職場、人間関係での悩みを、二次障害という言葉に置き換えることができる。
その可能性が一つあるだけで、いつでも彼らを「支援対象」にすることもできるし、「重度」にすることもできる。
だからこそ、「二次障害」という言葉を多用し、啓発するのです。
だって、「二次障害」という概念、言葉があっても、当事者の人たちにとってはプラスにはならないでしょ。
当事者の人たちが少しでもラクになる、生活が豊かになる、自立度が上がるための言葉でなければ、それは当事者以外の人が利を得るためのものでしかないのです。


「高齢者だから、(今は必要ないけれども)予防的に人工呼吸器をつけよう」は、「発達に遅れがあるから、(今は必要ないけれども)予防的に療育を受けさせよう」と同じ匂いがします。
仕事でお会いする相談者の年齢が低くなればなるほど、必要性のない療育、支援が横行している気がします。
私から見れば、「ただの遅れでしょ」「いま、ゆっくり育っているだけでしょ」という子ども達が、訳も分からず療育に繋げられ、通わされている。
その療育に通う意図は?と尋ねても、明確な答えが返ってこない。
百歩譲って療育を受けることは良いとしても、ギョーカイの狙いはそこじゃないことを承知しておく必要があると思います。
子ども達が子ども時代、療育を受ける→それが儲けになる、だけではありません。
本当の狙いは、生涯支援が必要な人になること、金の卵を産み続けるメンドリになることです。


一度、診断名をつければ、かたくなに外そうとしないのもそれです。
一度つけれさえすれば、いくら安定していても、もう支援が必要ではない状態に育ったとしても、「思春期」「二次障害」という概念がある限り、いつからでも「支援が必要な人」「重度の症状を持つ人」に変えることができる。
だからこそ、欧米では子ども時代の診断名は(仮)であり、外れる可能性があるといっているのにも関わらず、いまだに日本だけは、というか日本のギョーカイだけは「一度付いた診断名は外れない」としている。
それは当事者のためではなく、自分たちの都合のため。
当事者の人たちにとって、また親御さんたちにとって、「外れる」ことがあるというのは希望になり、発達・成長、子育ての希望と力になります。
だけれども、ギョーカイは必死に否定する。


「人工呼吸器を付けている人が重症者」というのも、「療育や支援を受けている人が障害者」というのに似ていると思います。
必要のない、意図が明確ではない療育、支援を受けている子ども達は山ほどいます。
だけれども、傍から見れば、療育や支援を受けているのだから、障害を持っているのだろう、ということになります。
我が子の発達の遅れがわかった親御さんは、勧められるがままに療育、支援を受ける。
そのときの心境としては、「療育を受ければ症状が良くなる」「自立できる子になる」でしょう。
だけれども、療育の効果がないことに気づくのは、ある程度、受け続けたあとになります。
しかし療育を受けた事実は、診断名が付いた事実は、障害者として認めたという意味になる。
だから就学相談の手紙が届くのです。
そして地域によっては、療育と診断が既成事実になり、特別支援の道へ入れられてしまうことがある。


ギョーカイも「発達障害も発達する」は認めています。
これを認めないと、療育や支援を受ける意味がなくなってしまうからです。
だけれども、一方で「一度付いた診断は外れない」「IQは下がることはあっても上がらない」「治ったのではなく寛解」と真逆なことを言っています。
これはどういうことかといえば、状態が変わることを知ってほしくない、自分たち以外は。
本当にその人が人工呼吸器が必要なのか、コロナの影響で、コロナの症状が重いから人工呼吸器が必要なのか、が一般の人が判断できるようになれば、都合の悪いこともあるでしょう。
同じように症状が変わることが分かれば、症状を良くできない自分たちは責められますし、日常茶飯事に行われている症状の重さの書き換え、ペン先舐めて「今すぐにでも支援が必要な状態」と表現すること、ただの未発達を「自閉症」「発達障害」という診断名にしてしまうことができなくなってしまいます。
その妥当性を突っ込める人がいないから、ギョーカイは自由にやりたい放題ができるのです。
だから診断の権限は渡さないし、症状の重さ、支援の必要性の判定は内輪でやってしまう。


マスメディアは視聴率、購入部数を増やすことが目的です。
真のジャーナリズムとは、こういった一般の人が知らないこと、見えていないことを調べ、報道することだと思います。
本当に重症者病棟の使用率は100%を超えているのか。
どういった人たちが重症者として利用しているのか。
この重症者の定義、運用は適切に行われているのか。
個人が調べるには限界があるので、ジャーナリストが必要なんだと思います。
ジャーナリストが調べた事実をもとに、一人ひとりが考え、行動するのが健全な社会というもの。
いま、ギョーカイ内の歪んだ状態を述べる人は限られているので、また多くの親御さん達が知らずにギョーカイの手の内に入っていってしまっているので、私は見てきた真実を発信し続けていきたいと思います。
子ども達を守れるのは親御さんしかいないので。




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