資格支援(ブ)

他人から与えられるものには、そこまで有難がることはないと思っています。
だって、そこにはその他人の意思が入る余地があるから。
それよりも他人が奪えないものの方が価値があると思います。
自分の意思で手に入れて、他人からは奪えないものに本当の価値がある。
だから、資格よりも、自分の血となり、肉となった“腕”の方が大事だと考えています。
免許状は燃やせても、身に付けたスキルは燃やせませんね。


研修をせっせと受けて、資格や認定書をもらうことに価値を置いている支援者は少なくありません。
それが純粋に腕を上げるためにだったら、良いと思いますが…。
腕を上げることに付随しての資格や認定書ならわかりますが、どうも資格や認定書がメインのように感じる人がいる。
こういう人は、だいたい治せない支援者。
何故なら、自分がメインになっちゃっているから。
自分がメインということは、自分の方に治すべき課題がある証拠です。
目に見える形の資格や認定書を得ようとするのは、それ自体が自己治療だと感じますね。
自分の課題をクリアにしていない人は、他人の課題をクリアにすることはできません。


そもそも自分の腕を上げるというのは、孤独で、忍耐力のいる作業です。
それなのに、どこそこの研修を受けて、資格や認定書をもらったからスキルアップしたよ、みたいな考え方は甘いと思いますね。
資格や認定書に、その人が実際の場面でより良い支援ができる、という保証をする力はないのです。


それにね、研修を受けていない人が認定される場合があるんですよ。
「こんな時間も、お金もかかる資格、この人が本当に取ったの!?」という人が、資格取得者の名簿に載ってたりする。
それは、与える側と仲良しだから、宣伝のために、与える代わりに研修生をよこしてねってヤツ。
運転免許でも、全員学科と実技があるのに、それすらない資格もたくさんある。
特別支援のギョーカイは、8割がインチキ(ブ)
ある支援者が怒っていました。
「俺たちは、遠い場所まで行って、何日も研修受けて、やっとなのに、お偉いさんになると…」
まあ、そんなもんです。


民間の資格でも、なんとかメソッドでも、最初に始めた人は素晴らしい腕の持ち主が多いです。
そういう人は、孤独に、コツコツと、地道に、他人から見えない内にある信念を頼りに歩みを続けてきた人だから。
なので、わかっているはずです、認定書をもらっただけで満足している人は良い支援者になれないことを。
でも、経営のため、自分の承認欲求のために、こういった仕組みを作ってしまう。
現場でバリバリのときは、どんどん自立させていたのに、組織のトップが近づいてくると、自分の側から自立させない支援者になるのは、よくある話です。
私は願うのです、自立させる支援ができる人は、支援者も自立させてほしい、と。
更新が必要だとか、レベルが何段階もあるとか、いつまでも支援者を自分から自立させないというのは、見ていて残念に思います。
支援者同士で参勤交代みたいなことをやるのは、気持ちが悪い。


人を育てるということは、自分の足で立ち、自らの意思で歩を進められる人間を作ることだと考えています。
ですから、子どもや大人、支援者を自立させない、または自立を阻むように見えるというのは、本当の意味で人を育ててはいないということ。
人を育てているように見えて、自閉症支援、発達障害支援をやっているただのマニア、自分の課題を癒している自己治療の人がいます。
資格や認定書に重きを置くのではなく、自らの信念の元、自分の足で歩みを続けられる人こそ、己の腕を上げることができ、そして他人の自立を援助できる。
私は自閉症支援をやる人ではなく、人を育てられる人になりたいと思っています。

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