【No.1006】その子の内側にある“知性”を感じる

「うちの子、重度なんです」とお聞きしたあと、実際にお子さんと会うと、ぜんぜん重度じゃないといったことは、よくあります。
確かに、数値的には“重度”の範囲に入っているのかもしれない。
でも、それだからといって、まったく伸びないわけでも、生涯、重度の範囲のままというわけでもありません。


だいたい、今の検査は、どんな工夫、改良がされてきたとしても、発語が検査結果に大きな影響を及ぼします。
どうしても、言葉の遅れがある子は、数値が重度の方へ向かっていきますし、検査者によっては、「発語なし」という情報を得た瞬間、「どうせ無理だろう」と検査項目を一つ、二つと飛ばしていく人もいるくらいです。
「発達障害の子どもは、言語中心の検査では、実際の能力を確認することができない」と言いつつ、現場では、言葉のあるなしが大きな意味合いを持っているのです。


ですから、相談者の親御さん達の中には、「どうにか、言葉だけ出るようになってほしいです」「言葉の発達を促す方法を教えてほしい」という要望を持った方が少なくありません。
確かに、現社会において、言葉、発語のあるなしは、大きな意味合いを持ちます。
それは、子ども本人の問題ではなく、社会、周りの人の受け止め方です。
未だに、「発語がない」「言葉の遅れがある」といった、わずか数個の文字だけ見て、「普通級は無理ですね」「支援級、支援学校が適切かと思います」などと言ってしまうような発達相談があり、就学相談があるのです。
そんな実態があるもんだから、余計に発語が気になるのは仕方がありません。


言葉は、知性を表します。
しかし、知性が言葉なのか、といったら、そうではないと思います。
あくまで、言葉、発語というのは、知性の一端。
その一端が、あたかも、知性そのものであるかのごとく取り扱われ、しかも、それが進む道を左右しかねない。
関係者が、まるで専門用語を使っているかのように、「知的だ」「重度だ」「ボーダーだ」なんて言葉を発する姿に、どうして、ヒトの知性は、こんなにも薄っぺらいものになってしまったのか、と思うのです。


私は、人間の知性とは、とても奥が深く、高尚なものであると捉えています。
私達が、いくら、その知性を掴もうとしても、掴むことができない。
見ようと思っても、見ることができない。
見えたとしても、その一端を垣間見るのがせいぜい。
そんな感じがしています。
ですから、なにか言葉で表せたような気になった瞬間、とても薄っぺらいものだと感じるのです。
私の奥底には、「そんな薄っぺらなもので、ひと様の人生を決められてたまるか」という感情が渦巻いています。


言葉を発しないお子さんでも、「ああ、このお子さんは、賢い子だな」「きっと、将来、社会の中で働き、生きていく子だな」と感じることがあります。
確かに言葉は出ていないかもしれないけれども、身体の土台、生きていく土台がしっかりできている。
そして、物事を理解し、この子の世界の中には、ちゃんと前後左右、現在・過去・未来が存在している。
そういった雰囲気を感じる子は、将来的には言葉が出る子が多いですし、たとえ出なかったり、遅れが残ったりした場合でも、確実に歩を進め、生涯、発達、成長し続ける人に育ちます。
ですから、こういったお子さん達と出会うと、親御さんには、周囲が何と言おうとも、「彼らの知的好奇心を満たす環境、成長し続けるための体験を用意し続けてください」と切にお願いするのです。


早くから言葉を発していたとしても、意味も分からず、ただ発し続けている子もいます。
こういった子ども達が検査を受けると、数値が高く出たり、「言葉あり、特徴あり」というだけで、「ああ、高機能ですね」と言い切られてしまうこともあります。
じゃあ、言葉がある子が、将来、みんな、自立していくか、といったら、そうではない現実もあります。
結局、将来、自立するかどうか、社会の中で自分の資質を活かして生きていけるか、を決めるのは発語のあるなしではありません。


「発語があるから、高機能だから、うちの子は、専門的な療育、支援を受けていけば、大丈夫」
こういった勘違いが、子どもの育つ環境を狭め、結果的に自立を遠ざけていたといえます。
一方で、「発語がないけれども、うちの子は、ちゃんと理解している。育つ力がある」
我が子の内側にある“知性”を感じられた親御さんは、その知性が喜ぶ環境を用意し続けようとします。
私が学生時代、関わった子ども達の中には、ずっと発語がなかった子、遅れていた子、そして成人した今も言葉がほとんどない人もいます。
でも、障害者枠ではなく、一般の人として正社員として働いている若者もいますし、障害者枠の企業就労であっても、週末は自転車で自由自在に動きまわり、たまに私と顔を合わせれば、アイコンタクトをして微笑んでくれる若者もいます。


この若者たちの子ども時代を振り返りますと、ガチガチの支援を受けていた人はいません。
むしろ、同世代の子ども達と同じように学び、遊び、習い事をし、経験を積み重ねてきた人です。
あとは、それが将来、何の役に立つか、は明確な意図があったわけではないけれども、とにかくスポーツや絵、家の手伝い、読み書きそろばんを頑張った人たちでした。
今、考えると、彼らはみんな、自分の内側にある知性を喜ばせる活動をしてきた、子ども時代を過ごしてきた人達ばかり。
そういった若者たちの姿を目にするたびに、その子の知性を喜ばせる、が何よりも知性、そのものを育み、伸ばし、躍動させるのだと思うのです。


「言葉がある」→「はい、高機能ね」「普通級。もしくは、それがきつかったら支援級」
「言葉がない」→「はい、重度のお子さんね」「普通級は無理。頑張っても支援級かな」
おいおい、〇✖クイズかって思います。
そんな〇✖クイズで、子の人生、可能性が決められてたまるか!
私は、もっと怒って良いと思います。
そして、もっと一人ひとりの知性を感じてほしいし、その努力を怠ってはいけないと思うのです。


我が子に望むのは、「発語のある大人」になることではなく、「その子らしく自由に生きていってほしい」「自分の資質を活かして、生きていってほしい」「生涯、挑戦し、成長し続ける大人になってほしい」ですね。
それが親の願いであり、社会の願いでもあります。


===========================

【業務連絡】

①3月8日(日)の関東出張ですが、訪問するご家族が決定しましたので、募集を締め切らせていただきます。


②2月22・23日の関西出張ですが、すでにお申し込みくださったご家族には、訪問の日時をご連絡しました。「この機会に」とお考えの方がいらっしゃいましたら、あと1家族、訪問できそうな時間がございますので、お問い合わせください


③出張のアナウンスを応援してくださった皆様、協力してくださった皆様、このたびはありがとうございました。今回、縁があり、訪問させていただけるご家族のために全力を尽くすことが、応援してくださった方たちへのお礼となる、という気持ちで2月、3月頑張ってきます!

コメント

このブログの人気の投稿

【No.1358】体軸が育つ前の子と、育った後の子

【No.1364】『療育整体』を読んで

【No.1370】それを対症療法にするか、根本療法にするかは、受け手側の問題