【No.1008】早期から診断、療育を受けられる機会を得て、子が自ら育てる自由を失った

子どもに“自由”を保障したら、多くの子ども達は、今、自分に必要な発達刺激を求め、行動します。
基本的に、どの子も、自分の発達を知っている。
それは認知的な理解というよりも、内なる声といったニュアンスが近いと思います。
内なる声のまま、動くと、それが今、一番必要だった発達刺激だった、といった感じです。


発達相談の場面でもそうですが、お子さん達は、なんらかのメッセージを発していることが多いです。
私が発達のヌケを確認していく前に、子どもさんの動きから、どこに発達のヌケがあるかを教えてもらうこともあります。
一見すると、年齢とはズレた行動をしているので、その意味を見落としがちに。
でも、子ども達は、意味があるから行動する。


「名も無い遊び」というのもありますが、それだって、意味と繋がっています。
心理的な退行の場合もあれば、発達のヌケのやり直しの場合もある。
そう考えると、子どもが主体的に行うことのすべてに、意味があるのだといえます。
それを、「障害だから」「特性だから」「子どもだから」といって見落とすのは、大人側の責任だと思います。


子どもが主体的に行っている育て直しを、ただ見落とすだけなら良いのですが、それを矯正しよう、別の行動へと置き換えようとする困った動きがあります。
私がお会いするお子さんの中で、本人の「主体的な育て直し」がまったく見られない子ども達がいます。
確かに周囲からすれば、大きな問題はないんだけれども、発達のヌケがそのままで、本人が困っている、といった感じです。


普通に考えて、親が、周囲の大人が、「困らない子ども」というのは、ある意味、それが異常だといえます。
子どもは本来、自分の欲求のまま動く存在ですし、それが自然な姿だといえます。
大人が思う通りに動かないのが、本来の子どもなのですから、大人が困らない子というのは、なにかが欠けているか、なにか欲求が出ないような学習をされてしまっているか、です。


現在の療育、支援とは、基本的に、「介護しやすい子を育てる」という意図が根底に流れています。
それは、日本の特別支援、障害者福祉の歴史からみれば、当然なのかもしれません。
ですから、早期療育の目的も、「より早く神経発達を促し治す」ではなく、子育てがしやすいような、問題を起こさないような、将来、支援者が支援しやすいような、というような大人目線のものになっています。


そのため、早期から療育を受けた子どもさんほど、長い期間、特別な支援の中で過ごしてきた子どもさんほど、主体的な発達刺激を求める行動が見られなくなります。
DVDを観たり、タブレットを観たり、音楽を聴いたり、特定のおもちゃで遊んだり。
一見すると、静かに一人で遊んでいるいい子に見えますし、実際、親御さんは、この時間、ラクです。
でも、発達の凸凹は残っているし、一旦、こういった活動、環境を外れると、本人の困った、生きづらさが出てくる。
「自閉症だから」「こだわりだから」と言う人がいます。
しかし、そのほとんどは、そうやって静かに遊ぶように仕向けられた、学習させられた、主体的な行動を制止、矯正された結果です。


「自閉症」「発達障害」という診断名を通して、子どもを見ると、すべて障害ゆえの行動に見えてきます。
でも、他の子ども達と同じように、今、自分に必要な発達を求め、行動することができます。
ただ、年齢的なギャップがあるから違和感を持ってしまうだけ。
その違和感を、障害と取り違えてしまう。


取り違えたまま、療育機関に行くと、その取り違えを学習と矯正によって抑え込もうとします。
発達を求めての行動なのですから、本来は抑え込みではなく、解放しなければならないところを。
解放できずに、発達のヌケを埋める機会を貰えなかった子ども達が、発達を凸凹させたまま、年齢を重ねていく。
生きづらいまま、支援しやすい大人になるのが、特別支援の目標になってしまっている現在。


発達相談において、子どもなのに主体的な行動が見えないと、悲しい気持ちになります。
「本当は、この部分、育てたいよね」
思わず、そういった言葉を、子どもさんにかけることもあるくらいです。
どうして、自分のヌケを育てようとしないのか。
それは育てようとしないのではなく、育てることを止められ、別のことを覚えさせられた過去があるから。


いくら早期に診断できるような技術、システムができたとしても…。
いくら早期に療育が受けられる環境が整ったとしても…。
周囲の大人が、子どもの行動の背景に、その行動の発達の意義について理解できなければ、発達のヌケが埋まらないまま、年齢だけが重なっていくことになるでしょう。
どうも、今の特別支援の世界を見ていると、「飼い主を噛まないように躾けられる犬」を連想してしまいます。


家庭による躾は、大事です。
しかし、その躾も、自由自在に動かせる身体、生きていくための土台が培われてこそ。
子どもという主体が確立できてからの躾は、本人が生き抜くための力になります。
一方で、子どもの主体が確立できていない状態での躾は、大人がコントロールするための学習になります。


ですから、早期から気づくことは大事ですが、今の療育の中心であるような学習や指導はやらない方が良いと思います。
必要なのは、子ども達に自由な環境を用意すること。
年齢にそぐわない行動をしていたとしても、それが主体的に行われているものなら、敢えて止めない。
むしろ、それをとことんやり切ってもらうような後押しをする。


基本的に、発達のヌケを育て直すのは、本人に任せておけば良いのです。
子どもさんの場合、うまく必要なことを表現できなかったり、より望ましい環境へアクセスできなかったりするので、そこを親御さんが手伝うだけで良いと思います。
ちょっと発達の後押しをするなら、本人の行動にアクセントやバリエーションをつけるだけ。


特別支援のない時代の子ども達が、大人になって社会の中に適応し、自立していったのは、子ども時代に今よりも自由があったから。
早期の診断と療育は、子ども達が主体的に育てる自由を奪っているといえます。
だから現在は、支援しやすい、支援慣れした、生きづらいままの大人が増えているのでしょう。
根っこは、子ども時代の不自由です、発達的にも、発達機会的にも。

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