「治らない」という前提が揺らぎ始めている

GWに放送されたNHKの番組(再生医療や人体Ⅱ)などを観ていると、特別支援の医療は、本当に医療なのか、と思いました。
発達障害が疑われる子を診断する。
衝動性や心身の安定、睡眠に対症する薬を処方する。
確かに、これらは医師にしか認められていない医療行為です。
でも、そこには医療としての大事な視点が入っていないような気がするのです。
それは、「治す」という視点。


脊髄損傷やエイズなど、現在医療では治せない病気は、たくさんあります。
しかし、治せないと言われている病気に対し、懸命に治そうとしている人達がいます。
それが医療関係者。
今までにも、治らないと言われてきた病気が医療の発展により、治るようになりました。
もし、当時、治らないと言われていた病気に対して、「どうせ治らないんだから、研究しても無理。治そうとするなんておかしい」と、治すこと自体を諦めていたら、今も多くの病気が治らないままだったといえます。


医療機器、技術の向上、iPS細胞などの再生医療などによって、治せなかった病気に対して、日夜立ち向かっている人達がいます。
その人達は、「今は治らないけれども、きっと治す方法がある」と思い、心血を注いでいるのだと想像します。
その人達に対して、誰一人、おかしいとは言わない。
むしろ、それが自然な姿だと思う。
何故なら、医療の出発地点は、「治したい」という想いだから。


医学が確立されていない時代も、医療行為はなされていました。
それが時代と共に、科学的な意味の医学に変わっていった。
医学の始まりは、目の前の一人の患者さんだったはずです。
その患者さんが良くなった、治った。
そして、その理由を探っていった。
その積み重ねが、医学へ進歩させたのだと思います。


今まで治らないと言われていたけれども、治った人がいた。
だったら、その人と徹底的に向き合い、何故、治ったのか、理由を見つけるのが医療だと思うのです。
それなのに、特別支援の世界の医療は、最初から「治らない」と言い切ってしまう。
現代医療では、発達障害になった原因を特定できないのにも関わらず、年端もいかない子どもを前に、言い切ってしまう。
せめて、「今は治らないけれども、将来、治せるようになるかもしれない」と言ってほしかった、とおっしゃる親御さん達は少なくありません。


医療機関にかかるのだから、なにか良くなる方法、治せる方法を提示してもらえると思うのは、自然です。
何故なら、他の科の医療は、治すための医療行為がなされるから。
虫歯でも、骨折でも、風邪でも、「治る」と思うから、普通の人は病院に行きます。
もし、最初から「治せない」と言われるのだったら、誰も病院には行きません。
病院が治せないのなら、その痛み、苦しみから逃れるために、民間療法へ向かうのは当たり前のこと。
だって、治せないんだから、治そうとしないんだから。


全国から電話やメールで相談を受けています。
そのとき、相談者の口から出るのは、「病院に通う意味はあるのでしょうか」ということ。
もちろん、私は医療の専門家ではないので、その点に関しては、直接的な、明確な助言は避けます。
しかし、多くの人が、発達障害に関する医療に対して疑問を持っているのは確かです。
だって、治らない、治さないが前提の医療なのですから。


私は、こういった生の声を聞くたびに思うのです。
できるのなら、治った、良くなったという人と真摯に向き合ってもらいたい、と。
そして、その治った、良くなった人を、「たまたまだ」「誤診だ」「違うものだった」と否定するのではなく、その人の中に存在する治った理由を、医学的な視点から見つけ出してほしい、と。
それこそが、医療従事者、専門家だからこそ可能な仕事、役割だと思うのです。


私のところにも、治った声はたくさん届いていますし、実際、診断基準から外れ、今は普通に学校に行ったり、仕事をしたりしている人達もいます。
そういった人達の声、存在こそが、とても貴重だと思います。
治ったという貴重な声が集まれば、そこに大きなヒントが見つかるかもしれません。
それが、治った者同士が繋がり合う理由です。


医学が、一人の患者、一人の治った、から発展してきたのと同じように、発達障害も治ったという人達の声にこそ、より良い発展と未来があるのだと考えています。
DSM-5には、診断基準から外れる人達の存在、可能性が示されていますし、そういった研究は海外でなされています。
明らかに発達障害だった人が、発達障害の診断基準を満たし、診断名を受けていた人が、その範囲から外れて成長していく人達の存在が確認されているのです。


だったら、「発達障害は治らない」という前提が揺らいでいる証拠。
そんな前提にしがみつくから、良くなった人、治った人、診断基準から外れた人を祝福ではなく、否定や傷つけることをしてしまう。
しかも、それが治すが出発地点であるはずの医療関係者だったら、目も当てられない。
固定観念から飛びだすからこそ、新たな視点や発展が生まれるのです。
そういった意味では、日々の子どもの姿を傍で見ている親御さん達が、一番柔軟で、一番治せる人達だといえます。


繰り返しになりますが、発達障害の原因は特定できていないのです。
だったら、我が子に発達障害が生じた理由はわからないし、わからないのだったら、治らないと言い切れないし、治るとも言い切れない。
だったら、少しでも治る方向へ進むのが自然な姿。
実際、「治った」と言っている人達、診断を受けたのに、診断基準から外れ、普通に生活している人達がいるのですから。
少なくとも、「治らない」という前提が揺らいでいる今ですから、そんなものと心中するのは得策ではありません。
治った人がいるのなら、その治った人の中に、その育ち、歩みの中に、治った何かがあるはずです。
その治った理由を懸命に探そうとする人達と繋がっていたいですね、私は。

コメント

このブログの人気の投稿

【No.1358】体軸が育つ前の子と、育った後の子

【No.1364】『療育整体』を読んで

【No.1370】それを対症療法にするか、根本療法にするかは、受け手側の問題