2017年2月15日水曜日

「理解」という言葉はクセモノ

「理解」という言葉は、相当なクセモノだと思っています。
ぱっと見て、ぱっと聞いて、悪い印象は受けません。
むしろ「理解することは良いことだ」という思いが湧いてくることもあります。
だから、すぅーっと心の中に入ってこようとします。


「理解しよう」と言われると、なんとなく「理解しなくていいじゃん」と言いにくいのが、この言葉の特徴でもあります。
「理解」という言葉には、『正しく知る』という意味がありますので、知らないよりは知ってた方が良い、という生きるための知恵が否定を拒ませます。


しかし、「理解しよう」を「理解して」という言葉に変えると、この言葉のもう一つの顔が出てきます。
そうです、「理解」という言葉には、「察してね」という意味もあるのです。
『他人の気持ちや立場を察する』
ですから「理解して」と言えば、私の気持ち、立場、状況を察して、となります。


自閉症、発達障害について『正しく知る』というのは、私も賛成です。
知ることによって、身近な存在に気がついたり、より良い方法へとつながるきっかけになったりするかもしれませんので。
同じ社会で生きる人達のことを知らないよりは、知っていた方が良いに決まっています。
ですが、もう一つの側面、「察してね」という意味では同意しかねます。


普通の生活をしていれば、あまり使わない「理解」という言葉ですが、ギョーカイ語かなって思うくらい特別支援の世界ではよく出てきます。
診断を受ければ、「家族の理解、周囲の理解が大切です」と言われます。
学校に行けば、先生の理解、同級生の理解となり、社会に出れば、職場の理解、社会の理解が「大切だ~」となります。
しかし、「自閉症は治りません」と言うその同じ口から出てくる「理解」という言葉からは、正しく知ることを謳っているようには聞こえないのです。
どうしても、「自閉症は治らないのだから、察しなさいよ、察してよ」と言っているようにしか聞こえません。


「社会の理解ガー」という言葉を聞くたびに懐く嫌悪感は、一見良いことを言ってそうで、実は「察してよ」と言っている点です。
「自閉症は治らないし、我々も治す気がないから(治っちゃったら仕事なくなっちゃうし)、社会の皆さん、察してください、大目に見てください、譲ってください、予算をください」という方が、まだ潔くて良いですね。
当事者の人の中にも「理解ガー」と言う方もいますが、「(自閉症について)正しく知ってください」というよりも、「(うまくいかない自分を)察してください」と言っているように聞こえっちゃう人もいます。
これでは、多くの人達から賛同を得ることは難しいといえます。


最後に、その人の言う「理解」が、「正しく知る」or「察して」のどちらかを見抜く方法をお教えします。
まず相手がギョーカイ人だったら、99.99999%「察して」という意味です(笑)
これ以外の見抜き方は、「理解」を求められたら拒否してみてください。
そこでその人が怒りださなければ、「正しく知る」ですし、怒りだせば「察して」という意味で間違いありません。
理解したあと、理解した人がどう自閉症の人と関わるかは、理解した人が決めることです。
理解したあと、積極的に関わろうとするのも、関わるのを避けようとするのも、理解した人が決めるのです。
つまり、「理解しない」という選択に対し、ネガティブな反応を示すということは、そこに「察してほしい」「察するべきだ」という思いがあるから。


「理解」という言葉は、クセモノです。
なんとなく正しいことをしているような気がしてしまうから。
なので、私は本人の前でも、保護者の方の前でも、「理解」という言葉は使わないようにしています。

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