投稿

最終目標は『何でも屋』

『てらっこ塾』の最終目標は、何でも屋。 「自閉症に関することなら、何でもやります!」というような看板を掲げたい。 療育、相談はもちろんのこと、 保護者の方が急病や用事があるときに、預かるサービス 就職活動をサポートするサービス 一緒に外出するサービス 家庭の中を本人が住みやすい環境に整えるサービス お見合いや結婚生活のサポートサービス などなど。 自閉症支援の中核は、個別化。 だったら、サービスも個別化していく。 ニーズの数だけ、サービスの種類があるはずだ。 最初からサービスがあるのではなく、一人ひとりのニーズに合わせてサービスを作っていく。 「何を夢みたいなことを」と思われるかもしれない。 でも、私は必ず実現できると思っている。 というか、行動に移して、実現させれば良いだけと考えている。 『てらっこ塾』を作ったときのように。

お金よりも、支援者を遺す

子どもの将来のためにお金を遺すことも大事かもしれません。 でも、それと同じくらい、またはそれ以上に大事なことは、子どもの支援者を遺すことだと思います。 子どものことを理解してくれている支援者は、何人いますか? その人は、子どもが大人になっても支援してもらえますか? その人は、小さいときからのことを知っていますか? 学校に行っている間は、先生が子どもの理解者かもしれません。 しかし、学校はいずれ卒業しなければなりません。 ですから、学校の先生以外でも、自分の子どものことを理解してくれている支援者の存在が大切です。 小さいときからのことを知り、子どものことを本当に理解している支援者が家族だけ、という状態では、家庭内で落ち着いて過ごせなくなったとき、家族の身に何かあったときに、子どもの支援がプチッと切れてしまいます。 そのとき、一番困るのは子ども自身です。 お金に関しては、いざというときには福祉や行政の枠組みの中で、どうにかなるものです。 しかし、子どものことを本当に理解している支援者は、すぐには現れません。 子どもの味方は多ければ多いほど良いと思います。 「子どもが小さいときから、地域に子どものことを理解してくれる支援者を増やすことが大切ですよ」と、私は特に若い保護者の方たちに伝えるようにしています。

原因は「自閉症だから」!?

自閉症がすべての原因であるようなことを言う人がいます。 自閉症だから 「問題行動が起きても仕方がない」 「友達とトラブルが絶えない」 「通常学級ではやっていけない」 など。 極端な例だと、犯罪と自閉症を結びつけるようなこともあります。 確かに、犯罪を起こす人の中には、自閉症の人もいると思います。 でも、犯罪を起こす人の多くは、定型発達の人たちです。 何故なら本来、自閉症の人たちは、決まりやルールをきちんと守る人たちです。 また、人を騙したり、嘘をついたりすることは、相手の視点を想像し、それに合わせて様々な行動を選択しないといけないので、自閉症の人たちには難しいことだと言えます。 ですから、自閉症の人が犯罪を起こしたとしても、そこに至るまでには別の要因が複雑に絡み合っている場合がほとんどだと思います。 そして、できない理由を「自閉症だから」と結びつけてしまう人もいます。 我慢ができないこと、座って勉強ができないこと、規則正しい生活ができないことなど。 どんな本や講演会でも、自閉症の特性に「我慢ができない」などが挙げられることはありません。 つまりできない理由は、自閉症だからではなく、環境の要因が大きくかかわってきます。 例えば、本人に分かる形で学ぶ機会が与えられていないこと、誤学習をしてしまったことなどです。 この前も残念なことに、支援者の中に「自閉症だから」と発言する人がいました。 そんなとき、私はただ否定するのではなく、「その行動の背景には、どんな自閉症の特性が関わっていますか?」と尋ねるようにしています。 キャリアや役職に影響されることなく、「おかしいな」と思ったら常に自閉症の特性に立ち返って物事を考えることが大切です。

自閉症の専門家よりも、子どもの専門家

「私、自閉症について全然勉強してなくて・・・」 と申し訳なさそうにおっしゃる保護者の方がいます。 私はそんなとき、決まって「そのために私たちがいますから」と明るく言うようにしています。 自閉症の特性を持っているお子さんがいるなら、自閉症のことについて知っておいた方が良いと思います。 でも、専門家のような知識や技能を習得する必要はない、と私は考えています。 自閉症は子どもの一部分であって、自閉症が子どものすべてではないからです。 時々、支援についての話がお互いの知恵比べのような状況になることがあります。 構造化が、個別化が、ABAが、環境の調整が、PECSが、SSTが・・・ 子どもの話が中心なはずなのに、子どもの情報よりも、「こんなことも知ってます」というような専門用語のオンパレードってこともあります。 私は支援を組み立てていくときに、素晴らしいなと思う保護者の方は、自閉症について詳しい人ではなく、お子さんの専門家である人です。 子どもが好きなこと、過去の支援の経過と結果、長所に短所、性格など、あらゆる子どもの情報について的確に答えることができる人。 そんな子どものことを誰よりも理解している保護者の方は、自閉症の専門家にとって心強い仲間のような存在です。 自閉症の専門家は第三者だからこそ、客観的に支援を組み立て、実践することができるのだと思います。 また、自閉症の専門家になるには、個人差の多い自閉症の人たちですから、より多くの自閉症の方たちの支援に携わっていることが必須条件になります。 もちろん、子どもから成人した自閉症の人たち、幅広い年代の支援の実践も。 自閉症の部分ばかりに注目してしまうと、一人の人間としての本来の子どもの姿が見えなくなってしまうこともあります。 ですから専門知識や技能の習得に時間をかけるよりも、保護者の方には、まず子どもの一番の理解者になって頂きたいと思っています。 そのためには自閉症の専門家と言われる人たちが多くなり、保護者の方に自閉症の専門家と子どもの専門家両方を担ってもらう必要がないくらいにしなければならない、と考えています。 自閉症の専門家になれる人は多くいますが、子どもの専門家になれる人は唯一保護者の方だけですよ。

はこだての家 日吉

「はこだての家 日吉」の良いところは、障害と福祉を前面に出していないところです。 あくまで個人を尊重しています。 〇〇障害を持っている〇〇さんではなく、〇〇さんが〇〇障害を持っているという考え方です。 ですから、スタッフも人と人の付き合いをする。 困っていることがあれば、その部分をサポートする。 「障害があるから手伝う」などという一方的な支援は存在しません。 スタッフは困っている人がいれば、ただ自分のできる範囲でお手伝いをしているだけです。 当たり前のことを当たり前にしているのは、個人を中心に考えているから。 24時間、人に見られている生活。 必要ない手助けをされることも、やりたくないレクレーションもありません。 それは福祉施設ではなく、一般的な賃貸住宅だから。 一般的な賃貸住宅は、入居者さんが主体であり、自分たちで住みやすい空間にしていきます。 障害があっても、なくても、みんなにとって住みやすい空間へ。 自立した生活を送りたい方たちに、ちょっとだけお手伝いをする「はこだての家 日吉」 「ユニバーサルデザインを形にしたら、こうなった」と言えるような空間を目指していきたいです! *発達障害の方で見学を希望される場合は、私が同行させて頂きます。お気軽にお申し付けください。

東京大学に自閉症の専門家を!

「特定の分野や活動で飛び抜けた才能を持つ高校生を集め、育てていく」 東京大学が発表した2016年度から始める推薦入試のことです。 私はこの東大の推薦入試について大賛成の立場です! 特定の分野や活動に秀でる人たちは、まさに一点集中型の頭脳を持つ人たちです。 今までの入試では、満遍なくどの教科もできる必要がありました。 例え、特別な能力を持っていたとしても、他の教科ができなければ、入学できませんでした。 しかし、そんな人たちが入学し、学ぶチャンスが得られるのです。 一点集中型の頭脳を持つ人たちの中には、自閉症スペクトラム障害の人たちが多く含まれることが想像できます。 平均を求められる教育ではなく、アンバランスでも突き抜けた才能を伸ばす教育。 やっと自閉症の人たちの学び方に合った教育が始まろうとしています。 養護学校が行っている教育だけを「特別支援教育」と言うのではなく、このような特定の分野に秀でている人たちを活かす教育も含めて「特別支援教育」と言うのです。 このような入試制度が始まるので、入口のところは前進しました。 ですから、今度は在学中のことを考える必要があります。 全国から飛び抜けた才能を持つ学生を集めてくるので、大学以外の生活の部分でのサポートも併せて考えていく必要があります。 実際、大学内では申し分がないのに、生活の方が破綻してしまって、大学生活が送れなくなってしまうという話もよく聞きます。 また、一人で研究を行っている分には何の問題もないのに、研究室に入り、他の学生や教授たちとともに研究や議論を行うようになると、人間関係等の問題が起き、また本人もストレスを抱えてしまうということもあります。 ですから、スペシャルな学生をサポートするスペシャルな支援者も必要になってくると思います。 全国から集まってきた秀でた才能を持つ学生が安心して大学生活を送られるように、学業面でも、生活面でもサポートする支援者。 東京大学に、自閉症支援の専門家が常駐する日も近いかもしれないと、新聞記事を読みながら考えました。

評価に"笑顔"の文字が・・・

よく「一日、よく笑って過ごしていました」「調理学習の時間も笑顔で活動をすることができていました」というように、子どもが笑っていることが注目されます。 ときに、子どもの学習の様子を示した評価の記述の中にも"笑う"という表現が使われます。 しかし、子どもの学習の評価に"笑う"という概念は不適切だと私は考えています。 自閉症の人たちの場合、本当に快の感情から笑っているかは分かりません。 周囲から見たら、笑っていて楽しそうに見えることも、本人としたら困って笑っている場合もあります。 0か、100かで、物事を捉えやすい自閉症の人たちは、自分の微妙な感情を表現することが苦手です。 また、目に見えない自分の感情を表現すること自体も苦手なため、うまく自分の感情が表せずに笑ってしまっている場合もあります。 ですから、自閉症の人が笑っているからと言って、その活動が楽しくて笑っているとは限らず、反対に困っていて笑っている場合もあるのです。 また、支援者としても"笑う"ことに注目しすぎることは危険だと言えます。 笑うことばかりに注目してしまうと、どうやったら子どもが笑うか、に意識が向かいやすくなってしまいます。 笑う=学習意欲が高い=学習効果があるなどと、支援者の頭の中に、誤った図式ができることもあります。 子どもがその活動に意欲的に取り組んでいるかは、活動に臨んでいる時間やその活動を選択する回数などから評価します。 子どもにその活動の学習効果があるかは、自立度や速さ、回数、量などから評価します。 つまり、"笑う"という抽象的なことで評価をしてしまうと、支援者の主観が入りやすく、別の支援者が支援を組み立てる際に、再現することができない意味のない情報になってしまいます。 学習や活動に子どもたちの興味を惹く事柄を取り入れることは重要です。 また、学習以外の時間は、子どもたちの反応を引き出す働きかけは重要だと思います。 しかし、評価はあくまで客観的にしなければなりません。 それでなければ、支援者が変わるたびに、支援はゼロから始めなければなりません。 子どもが笑っていることは、支援者として嬉しいこと。 でも、本当に心から笑っているか、自分の気持ちを十分に表現できているか、は...