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【No.1415】始まりはアセスメント。戻るのもアセスメント

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学童野球で使用しているグランドは、冬季間、雪捨て場になっています。 雪がたくさん降った日などは、トラックが行き交い、荷台に積んできた雪を下ろしていくのです。 大人の背丈以上に積みあがった雪も、3月に入り、一気に溶け始めました。 いよいよ球春の季節がやってきます。 北海道内でも私の住む函館、道南は雪解けが早いため、3月の中旬から4月初旬にかけて、道内各地のチームが遠征にやってくるのです。 そこで先週末はグランドに広がった氷を割り、雪解け水が流れ出ていくような道を作りました。 コーチ2年目も始まります(笑) 高校野球の時以来、野球の本や講演会などを受講し、勉強すると、見ていた子ども達の姿も違って見えてきます。 知ることで視点が増え、見え方が変わる。 当時、正しいとされていた打ち方や練習方法などが否定されていたり、曖昧だった部分が科学的に説明されるようになったり。 そしてなんといっても当時なかったネット、とくにYouTubeなどでプロ野球選手やトレーナー、メジャーリーグの選手を指導するコーチの動画が見れちゃう時代です。 理由もわからず、また説明もなく、監督に「こう打て」と言われればそのように打ち、「ああ投げれ」と言われれば訳も分からずそのように投げる。 先輩が「走れ」というから走り、これがうちの高校の伝統だとなれば、そのように動く。 そんな時代からみれば恵まれた時代、うらやましいなと思える時代。 でもその一方で自分軸がない子には大変な時代だと感じます。 今日、この打ち方をしていたかと思えば、次の日には別の打ち方をし、また次の日には…。 結局、身になる前に次の何かに気が移ってしまう。 これは野球の話ですが、ほかの習い事、また子育て、学校、仕事、社会、日本と同じような構造が見られるのではないでしょうか。 特別支援、ハッタツの世界もそうですね。 良いと言われる情報は無限とあり、日々新しい情報が出てきます。 専門家と言われる先生の講演会に行き、実際に専門的な支援を受けることもできる。 どんどんマニアックになろうと思えばなれる時代。 でたくさん手に入れた情報をもとに子育てを行おうとする。 そしていつの間にか、情報を処理することに追われ、目の前にいる我が子が見えなくなっていく、まるで溜まった録画をこなすように観てしまうように、まるでYouTubeの「お気に入り」に入れておいた動画を減...

【No.1414】「うちの地域、遅れている」の変遷

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25年前の「うちの地域、遅れている」という意味は、発達支援センターがあるかないか、でした。 20年前の「うちの地域、遅れている」は、TEACCHプログラム、ひとことでいえば視覚支援をしているかどうか。 それが15年くらい前からは特別支援教育、療育機関、児童デイがあるかどうか、どのくらい専門的な、つまりただのお預かりではないところがあるかどうかになって、ここ10年くらいは身体アプローチをやるところがあるかどうかへと変遷を辿ってきたといえます。 いつの時代のお母さん達も、「うちの地域、遅れている」とおっしゃいます。 これが意味するところは、常にお母さんのニーズ、情報のほうが先行するという意味です。 別の言い方をすれば、行政や公的な機関、学校はいつも遅れているということです。 それは特別支援の世界に限らず、日本全体あらゆるところで見られる現象でしょう。 とにかく遅い、遅れる、周回遅れ。 だからこの日本という国でよりよく生きようと思うのなら、変わるのを待つのではなく、変わるために動くしかないのです。 国に頼らず、行政に頼らず、医療や教育に頼らず、自らで動く。 今この瞬間、生まれつきの障害でできることは理解と支援だと思い子育てをしている家族がいる。 一方で脳の可塑性、エピジェネティクスの考えをもとに、またQEEG検査などで脳の状態を確認し、治療やトレーニングをしている家族がいる。 当然、家族が進む道、子ども達の将来は大きく違ったものになるでしょう。 同じ日本という国にいながら、全く別の道を歩んでいる。 人間の脳の特徴として最初に入った情報から抜け出せない、なかなか更新することができない、ということがあります。 なので、はじめが肝心なのです。 はじめに公的な機関に行けばアウト、不幸を垂れ流している親御さんのSNSをみればアウト。 「発達障害がある子も発達する」 「全身に張り巡らされている神経からアプローチすれば改善していく」 「幼少期診断を受けた子も、自立して生活している」 「診断名は外れるし、治る」 「脳のどの機能が落ちているのか、神経結合がどうなっているか、がわかるし、それに対する治療もある」 このようなポジティブな情報、最新の情報を増やしていかなければなりませんね。 「治らない」「理解と支援しかない」と思っている人を変えるのは難しいですが、これから子育てを始めようとしてい...

【No.1413】「自閉症の赤ちゃんは頭が大きい」という話

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「自閉症の赤ちゃんは頭が大きい」というのは、昔から言われていたことですね。 自閉症=頭が大きい、とはいえないものの、確かに頭が大きい子が多いのも事実。 施設で働いていた時も、その傾向は顕著でした。 入所している子どもも、大人も、明らかに頭囲の大きさが目立っていました。 その背景として「シナプス(神経結合)の刈り込み」が指摘されています。 生後すぐの脳内は過剰といえるシナプスが存在しています。 たぶん、ほかの動物にも共通していることなので、生まれ出た環境に適応できるように多めに繋げているのでしょう。 しかし、そのシナプスも成長とともに、環境に合わせて必要なものを遺し、あとは除かれていく。 全部残していたら効率が悪いですし、多くのエネルギーを使っちゃいますからね。 このシナプスの刈り込みがうまくいかない、不要なものまで残してしまうために、効率的な、つまり機能的な行動を獲得、実行できないんだと思います。 自閉症の特徴で有名な「シングルフォーカス」もそうですね。 詳細に細かく物事を捉えてしまうため(多くの神経回路が発火する、不必要な神経回路を迂回しちゃう)、全体を捉えることができず、情報の捉え間違い、勘違いが起きてしまう。 私は自閉症は治るし、支援じゃなくて治療派でずっとやってきましたが、この「シナプスの刈り込み」の件は話題にしてきませんでした。 だって頭(脳)が大きいものを小さくするのは「そりゃあ、無理でしょう」と考えていたから。 それに頭(脳)を小さくする方法を私は思い浮かばないから。 過剰なシナプスをどうやったら適切な状態にすることができるのか、それこそ、「刈り込み」なんていうのを人為的に行えるのか。 「治しやすいところから治す」という方針で発達援助をしてきた私からしたら、過剰に神経回路が繋がり、脳の大きさまで肥大化させた頭(脳)にアプローチしようとするのは最後の最後で現実的な話だと思ってませんでした。 だから、この頭の大きさ、シナプスの刈り込みの話は避けてきたんです。 でも、ある信頼できるお母様から「シナプスの刈り込みも可能」という回答をQEEG検査(←所見の方はネット検索へGO!)の結果とともに聞いたというのです。 これは衝撃的な話です。 もちろん、頭の大きさを小さくする(外科的な意味)という話ではありませんが、そういえば実際に脳にメスを入れた自閉症の子がいたのを...

【No.1412】人が人らしく、人にしかできない部分で発達援助を行っていく

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厄払いをした父親と、何もしなかった母親。 した方が体調を崩し、しなかった方には何も起きなかった。 子どものとき、そんな姿を見ていたので、私は何もしないことにした。 だけど振り返れば、本厄モロ受けというのが今年の私でした。 なにか動こうとすると、ダメになる。 うまくいかないというよりも、ストップがかかるというのが2024年の一年間。 同じ57年生まれの男衆に訊けば、体調を崩した人、車や家などモノが壊れた人、ある人は自分じゃなくて家族に災難ばかり起きていたということでした。 そういえば、モノが壊れることは多かった。 たまたま重なっただけかと思っていたけど。 モノが壊れない時期は、自分の身体が壊れていた。 モノが身代わりになってくれていたのでしょうね。 とにかく厄年はあなどれないことがわかったのでした(笑) 相談者さんの中に、QEEG検査を受けたというご家庭が出てきましたね。 来年はますます増えることでしょう。 今までどういった脳機能が低下しているのか、発達が凸凹しているのかは、怪しいチェックシートか、行動観察か、支援者の見立てか。 私の場合、どうしても怪しさを抜け出せない(笑) 邪気とか、よどみとか、脳のこっちが動いてないですね、とか。 みなさんを説得するための唯一の基準は、定型発達という尺度で、いついつこれができる、通過している、ここまでが正常発達の範囲といったものでした。 そこにQEEG検査という客観的なデータが現れ、発達障害の世界、いや、発達援助の世界に大きな前進がみられた一年だと感じました。 金太郎あめのアセスメントと、職人芸頼みのアセスメントの時代は終わりました。 もうすぐAIがアセスメントする時代になるでしょう。 脳の見える化が進んだあと、大事になってくるのはヒト本来の役割。 各家庭の子育てを応援したり、アイディアを出したり、その子が育つ環境をクリエイトしたり。 どこに課題があるかがわかったら、その課題をどうクリアしていくのか、また実際に手足を動かし行動するかは、人が行う役割。 人が人らしく、人にしかできない部分で発達援助を行っていく。 今まで金太郎あめの療育に、カニカマの支援者ばかりでしたね。 支援者を食わせるために仕事を作ったみたいなハッタツ業界。 儲けるための過剰診断も、自立を目指さない自立支援も、みんな、淘汰されていく。 AIは忖度しないですからね。...

【No.1411】発達や子育てを援助する者

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「内々で処理できないまでになったんだな」というのが最初に思ったこと。 https:// 賃金未払い 北斗の社会福祉法人に是正勧告 大量退職も調査へ|NHK 北海道のニュース これまでにも利用者さん、家族が不適切な支援について訴えたり、職員が労働環境やハラスメントについて訴えたりしたよ。 でもその都度、パッと盛り上がったかと思えば、花火のように一瞬で消えていった。 幅を利かせることのできる理職がまだ沢山いたからね。 そういった人たちが去り、抑え込めなくなったのかもしれないなんて想像する。 こういった問題が”明るみに出る”と、批判の先はその施設、職員に注がれます。 でも、本当にそうなの? もちろん、そういった行いをした人が責められるのは当然のこと。 法人、組織として事業を行っている以上、その長が責めを負うのも当然。 だけど、その役割、仕事を押し付けてきた人たちがいるのではないでしょうかね。 監督する立場の行政だって、何も知らないなんてことはないはずです。 第三者委員の人だって何度も施設にやってきてましたね。 若い時は「なんで見抜けないんだよ」と思っていた私も、年数が経つごとに理解することができた。 見抜けないんじゃなくて、見て見ぬふりをしているんだ、ってね。 ある意味、問題を指摘し、施設に改善命令や業務停止を出すことは簡単にできる。 しかしそれ以上に、その施設を潰したあと、利用している人たちの処遇をどうするのか、ほかに行き場所があるのか、そっちを考えるほうが何百倍も大変。 全道から、本州から、全国各地からやってくる利用者。 そして何年も、何十年も、人里離れた場所で暮らしている。 当然、実際に行われているのは自立支援じゃなくて介護、薬漬けの生活。 本人も自立できるとは思っていないし、支援者側も思っていない。 また家族の中には、なまじい施設を出て生活ができるくらいに育っては困ると考えている人たちだっている。 家に連れて帰りたいけれども、近所の人たちから苦情が来るからと涙を流す家族もいる。 全国どこの障害者施設だって問題はあるでしょう。 そもそもが問題が生じやすい環境になっているから。 街の中心というよりも、郊外に。 外部の目が届きにくい構造。 本人が訴えても「障害があるから」と信憑性が疑われるし、そもそも訴える手段を持ち合わせていない人が大勢いる。 支援する側と支援される...

【No.1410】自己治療を応援する

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「良いところを見つけ、良いところを伸ばす」 特別支援学校の先生も、支援者も、大学の先生も、みんな、口をそろえて言っていた。 だけど、私は一瞬でそれは一種の”慰め”だとわかった。 「あなたに、あなたの子に発達障害はあるけれども、良いところもあるでしょ」 「全部が全部、ダメなわけじゃない」 そんな慰めの言葉はお作法として有難く受け渡しされていた、親と支援者の間で。 「良いところを伸ばす」という実践はどこでどんな風に行われているのだろう? 色のマッチングができる子に、ひたすら色分けされたカードを分別させるのは「良いところを伸ばす」なのだろうか。 ゴミにこだわりがある子に、回収されたペットボトルのラベルはがしをさせるのは「良いところを伸ばす」なのだろうか。 日常生活をルーティン化させる子に、ルーティンで物事を習得させるのは「良いところを伸ばす」なのだろうか。 色に強く意識が向くのは目の未発達かもしれないし、ゴミのこだわりはトラウマから逃れようとしている行為かもしれない。 すべてのルーティン化は洪水のように押し寄せる刺激への対処かもしれないし、脳内の情報処理がうまくいかない”もがき”かもしれない。 私は「良いところ」ではなくて、「資質」なんだと思う。 その子の持って生まれた資質。 それはある程度、年齢が上がったあとに見えるものではなくて。 学校や施設で見える「良いところ」は往々にして環境との折り合いをつけた対処法だったり、作られた学習形態だったりする。 だから、それらをいくら取り入れ、繰り返し、褒めちぎったとしても、治療にはつながっていかない。 発達の課題はその人の内側にあるものであって、だから治すのもその人本人。 発達障害を治すのは自分自身であって、”自己”治療が真実だから。 資質というのは、言葉を獲得する前、2歳くらいまでの時期にどんな動き、遊び、興味を持っていたかで見えてくる。 言葉を獲得したあとは学習するが、それ以前は教わっていない自らで編み出した形のまま。 「心地よい」に突き動かされる行動こそ、その子が引き継ぎ、持って生まれてきた資質。 「”心地よい”を大切にしよう」というのは、その子の資質の表れだから。 そんな資質は、生まれ出た世界で生き抜くための発達のエンジン。 生活の中に資質を活かした活動がある子は、日々治っていく。 仕事の中に資質を活かした活動がある人は、年...

【No.1409】”胎児期のヌケ”に新たな視点

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昨日は「制限を取っ払った状況、なにものにも縛られず、自由な環境こそが、その子本来の支援、治療、学習の姿が現れる」というお話をしました。 でも、だからといってみんながみんな、無人島のような環境の中にいれば、「勝手に育つ、勝手に課題をクリアしていく」とは言い切れないと思っています。 いや、確かに現代における「発達障害」という課題の大部分はそれでクリアされるはずです。 ただもう一つ重要なポイント、視点があると考えているのです。 それは「制限も、重要な発達を促す要素の一つ」ということです。 私は胎児期も大事な発達期だと考えています。 お母さんのおなかにいるときも、絶えず刺激を受け、心身共に発達をしている。 だからこそ、想像してほしいのです。 胎児は身体が大きくなるにつれて、動きに制限が加わります。 それまで羊水の中を泳いでいたのに、日に日に大きくなり、妊娠後期にはほぼ動けない状況になります。 だけれども、それがいいのです。 それが必要なのです。 手足は屈曲し、動かせる部位が限られていく。 そうなると、胎児の赤ちゃんは動かせる部位を必死に動かそうとする。 それが手や指、口などの顔の筋肉であり、捻じるというそれまでになかった動きを生むことになる。 いろんな事情により早期に生まれた子ども達は、そういった「制限された環境での発達」を抜かしていることがあります。 そして抜かしているからこそ、欲しているように見えることがあるのです。 自ら狭い空間に入っていったり、私たちから見れば物理的にも、心理的にも、行動的にも不便そうな環境づくりをしたり。 中には自らの身体を縛ったり、固定したり、敢えて動かそうとしなかったり。 環境を変え、身体機能を変えることで、自らに制限を加えている。 それは一見すると、障害児っぽさであり、障害特性であり、その子自身で行う発達援助。 発達相談でお子さんのアセスメントをしていると、このような姿、子ども達からのメッセージを感じることがあります。 「発達のヌケ」には運動発達のヌケ、進化の過程のヌケだけではなく、こういった制限された状況で育つはずのヌケもあるような気がしています。 「胎児期のヌケ」に一つ新たな視点が加わった印象です。 ======================= 【発達相談のご案内】 11月に熊本、12月に宮崎に出張予定です。 もしこの機会に「発達の悩み...