【No.1277】不登校と待てない大人たち

不登校には30日ルールがあって、病気や経済的な理由ではない年間30日以上欠席した児童生徒が不登校となる。
だから、学校は30日のラインを気にしていて、何故ならそれが学校の評価であり、報告や対応する必要が出てくるからであって、それを超えそうになると、「一度、病院に行ってみては?」なんて話が出てくる。
だって、病院に行ったら病欠で欠席数のカウントがされないから。
そしてお決まりのパターンとして、起立性調整障害or発達障害が疑われるからなんて理由づけがされる。


病院に行けば、なんらかの診断名はつき、それで投薬などの治療が開始される。
病院は患者さんゲット、学校は「病気が理由の欠席」となって不登校のカウントを減らせ、親御さんも不登校という曖昧で何も手出しができない感じから一応の原因が見つかり気持ちがラクになる。
でも、その子はそれでラクになるだろうか、課題がクリアできるのだろうか。
私のところにも、不登校をきっかけに発達障害の診断を受けた子ども達からの相談がきます。
まさに大人の都合で作られた発達障害ですね。


確かにお会いすると、発達にヌケや遅れがあったり、自閉症っぽい子どもさんもいることにはいます。
でも、実際のところは、精神科薬を飲み始めてから元気がなくなり、閉じこもりがちになったり、幼少期は発達の遅れがなく、学校に行ってから徐々にコミュニケーションがむずかしくなった、友達と遊ばなくなった、トラブルを起こすようになった、といったことばかり。
専門家はよく「学校という集団が大きくなったから」「学校では共同する活動が多くなるから」なんていって、「気づかれないまま就学した発達障害」とするように持っていきますが、このご時世、どこでもここでも何かあるとすぐに「あの子は発達障害では?」となる子どもを取り巻く環境の中で、就学までスルーということは、違うんじゃないのって思います。
また幼稚園や保育園、学校もそれまで通えていたのなら、たとえ発達障害があろうとも、そこが問題の中心ではないと思いますね。


不登校の子ども達は、「どうして学校に行かなくてはならないの?」と親御さんに言うことがあります。
で、親御さんのほうは、またそれを聞いた専門家も、「将来のために」「友達と学ぶことは大事だ」など、そのままの意味で、しかも言葉で返してしまいます。
本当に賢いお子さんで哲学的な思考を持った子なら、こういった疑問が出るでしょうが、ほとんどの場合は、尋ねているんじゃなくて、「行きたくないよ」「寂しいよ」「家、お母さんから離れたくないよ」というのをストレートに言えなくて、歪曲した表現で伝えているんですね。
学校は行かなくてはならない場所だという無言のプレッシャーと、親御さんの空気を読んでって場合が多いと思います。


根本に発達のヌケや遅れがあり、それで周囲と同じ活動ができず、さらにそれを本人が気にしていて、また周囲から叱責されて、辛くなって学校に行けなくなる、ということがあれば、「発達障害ゆえの不登校」になるかもしれません。
でも、周囲と同じ活動ができないことをモニタリングでき、また自分事として悩むっていうことは障害と言えるくらいの課題があるとはならないでしょう。
またたとえ根っこに発達障害があろうとも、周囲の友達や先生が支え合えるような状況ならそのまま学校生活が送れるわけです。
もちろん、いじめや先生による強い叱責、罰などによることが原因なら、それは発達障害とは関係ない話。
さらにいえば、そういったネガティブなことがあったとしても、良い先生や仲間、安心できる家庭があれば起き上がって進んでいけるのですから、根本はトラウマを癒せない今の生活環境ともいえるのです。


結局、不登校にしろ、体よく「発達障害」というレッテルが使われているんじゃないか、ってことを思うのです。
ろくなものを食べていなければ、元気が出なくて学校に通えなくなったり、すぐにカッとなってしまうのは当然です。
夜も遅くまで自由にネットやゲームをしていれば、朝起きられず、学校に行くことができないのは当然です。
時々、専門家の先生も「それって親の問題では、生活の問題では」って思っていても、それが言えないから「発達障害かもしれませんね」なんて診断を付けているような雰囲気を感じることもあります。
幼稚園でも、保育園でも、母子分離がうまくいっていない子は普通にいて、だましだまし行っていたけれども、それが学校生活の中で表に出た子が不登校になっているような場合が少なくないと思います。


発達というのは満たされると自然と動きたくなるものです。
母子関係が満たされるから、外の世界、別の人への興味関心が発動する。
いつまでも親の周りから離れないでいれば、親が死んだとき、子も息絶えることになる。
だからこそ、自分の身体を使って動けるくらいまでは親が育て、それ以降は親元を離れて食料を獲るようになっていくのです。
それが動物としての本来のヒトの姿であり、発達の原型です。
なので、本来、親元から離れた世界は魅力的で、本能的に求めていくのが自然な流れ。
学校という作られた環境はつまらなくても、親から目が届かない場所に行き、同世代の仲間たちと活動すること自体が興奮に繋がる。
そうでないとしたら、まだ自由自在に動けるだけの身体、運動発達が整っていないか、母子間の愛着が満たされていないか。


発達援助というか、子育てというか、動物としてのヒトを育てるというかわかりませんが、私達大人が行うことは、子ども達が満たすまで待つことであり、満たしきれる環境を用意することではないでしょうか。
運動発達でも、ある発達段階をやり切ると、自然と自ら次の発達段階へと進み始めます。
愛着形成でも、抜かした発達段階をやり切ると、自ら外の世界へと飛び出していくものです。
愛着形成のヌケをやり切ったら、突然、自分から「学校に行く」と言って登校を始めた、なんてことはよくある話です。
「自分から動きだせない」が不登校の原因なら、いくら引っ張っていっても、ご褒美でつっても、スケジュールを視覚提示しても無理。
保健室登校を勧める人もいますが、場所の問題じゃないんですね。
ただ保健室の先生が母性的な人で、子どもさんが「退行できるから行く」というケースもあります。


世の中全体が待てなくなっているように感じます。
言葉が出ない子が小学校高学年くらいから話し始めるなんて話は普通にある話です。
そこがその子の満たしきれる時期だっただけのことでしょう。
700万年の人類の中で、ハイハイを飛ばした赤ちゃんは数え切れないくらいいて、でも成長していく中で自然とそのヌケを埋めていったはずです。
つまり、抜かしたことが問題というよりも、抜かしたまま満たされないのが問題。
早く満たしてあげたいと思うのは自然な親心。
でも、その子が不幸かといったら、今の生活に不満があるかといったら、また別の話。
大人になってからも、少しずつ治っている人、治している人がいます。
彼らを見ていると、不幸には見えません。
どうも今は治すことも競争になり、待てなくなっているようにも感じます。


もう少し子ども達のペースと育つ力を信じて、満たしきって自ら次のステップへと進み始めるのを待っても良いかなと思います。
不登校の子ども達だって、人生をトータルで見ればそこに意味があり、決して不幸を感じているわけではないと思います。
不幸にしているのは、本人が満たしきるまで待つことのできない周りにいる大人たちかもしれませんね。




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