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【No.1476】子の自立、親の自立、援助者の自立

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もう久しくFacebookを開いてない。 通知は来ているけど。 「私が勝手に呟きます」「どうぞご自由に」というXやインスタ。 一方でFacebookにはそんな雰囲気がなくて、会ったこともない人からの友達申請に邪気を感じてしまう(笑) 職歴でいえば、福祉職員と教員で、いまの自営業の3つだけど、やたらめったら繋がろうとする職場はなかった。 いや、私自身が避けていたのかもしれない。 いい大人がわざわざ集まって何が楽しいのかわからない(笑) 時々、こんな私でも「繋がりたい」「コラボネガイマス」と言ってくる人がいるけど、ほぼ断ってきた。 私が関わりを持とうとするのは尊敬できる人、学びたい人、協働することでその子、その家族、その地域が今よりも良くなる、と思えた人に限っているから。 「なぜ、人は群れるのか?」なんてことを想像してみる。 たぶん、それは生存戦略の一つなのでしょう。 この人と組むことで、売り上げが上がる、確保できる。 事業がピンチになったとしても、(仲良くしていれば)助けてもらえるかもしれないというリスク管理。 あと、このギョーカイで多いのは、強い不安と愛着障害を持った人が多いということ。 みんな、何かあるたびに集合写真を撮りたがる。 集合写真が美しいのは高校生まで。 おじとおばの…以下自粛(笑) ここからはまじめな話で、ひとを援助するというのは孤独じゃないとできない仕事だと考えています。 別の言い方をすれば、孤独に耐えうる土台がないとできない。 援助の対象者は困っている人。 その困った状態から抜け出したいと願っている。 彼らが援助者に求めているのは問題の抱え込みではなく、問題からの自立です。 いまは困難、生きづらさを抱えているけど、いつかそこから解放され、自らの足で歩んでいきたい。 そんな願いを後押しするのが援助者の役割。 いつかは去っていく存在で、援助者の存在を忘れたとき、その人は真の自立に繋がるといえるのです。 新年度が進んでいくと、「先生の指導方針がかわった」「昨年度の先生の方が良かった」「担任同士の引継ぎができていない」などという悩み、相談が多くなります。 もちろん、指導や学習の継続性は重要ですが、違う視点から見れば、先生、援助者が変わるくらいで影響を受けてしまうこと自体が問題なのです。 誰が先生で、援助者だろうが、自らで考え、行動し、学んでいける人を育てて...

【No.1475】発達に凸凹がある子が学習するために必要な援助とは

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「発達に凸凹がある子はまず凹への援助が中心」 というのが昨日のブログの話でした。 そして気づかれた方もいると思いますが、全体的な認知機能が低下している子、知的障害が重い子に対してはそのように言っていません。 そういった子ども達は現実的な問題として、援助者とともに決まったトレーニングをすることが難しかったり、トレーニングの意味や意図を理解することが難しかったりします。 そうなると特定の発達の課題、未発達の部分を育てることが難しく、できることが「発達全般に良いこと」「子ども、ヒトにとって共通して良いこと」になります。 整理しますと、「発達が遅れている幼い子」「発達に凸と凹がある子」「ある程度、理解する力を持っている子、援助者と共同作業ができる子(大人も含む)」は、凹の部分の苦しさが減るような援助とトレーニングが優先される。 「全体体的な発達の遅れ」「認知機能の遅れ」「トレーニングの意図を理解するのが難しい」「共同作業に困難がある」子の場合は、凹の部分を狭く捉えることも、ポイントを絞ったトレーニングも難しいため、発達全般に良いこと、その中でもできることを行っていくのが現実的な話になります。 ここからは今日の話に移りますが、「発達に遅れや凸凹がある子を集団の中に入れるのはどうか」です。 幼児さんの親御さんからは「一般の保育園、幼稚園に通わせようか。療育施設、児発に通わせようか」と、就学前の親御さんからは「普通級か、支援級か」「支援級か、支援学校か」という悩みを伺います。 そういった親御さん達に共通する考えの一つが「集団の中に入ることで社会性が身につく」になります。 反対に定型の子との関わりを制限することで、小集団になり特定の子しか関わることがなくなることで、「社会性が育ちづらく、身に付きづらくなるのでは?」という点を心配されています。 結論から言えば、定型の子の集団の中に入れても、というか入れるだけでは社会性は育ちません。 育つんだったら、すべての子を普通級、一般の幼稚園&保育園に入れればよいわけです。 定型発達の子ども達のようにはいかないのです。 定型発達の子ども達は、園生活や学校生活、遊びや習い事、日常生活などのあらゆる場面で、自ら試行錯誤を行い、また模倣することで社会性、対人スキルを学習、習得していきます。 しかも子ども達は「さあ、社会性を身に付けよう」「この場面に必...

【No.1474】凹を育ててから凸

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「発達障害の人は特別な才能を持っている」という人たちがいる。 その内訳をみれば、そのように言うことで絶望感をもっている親御さんに希望を持たせようとする偽善者と、古くは映画『レインマン』、ドラマや漫画などから得た知識をそのまましゃべっている傍観者になるでしょう。 そこから派生して「才能」までとは言わないけれど、「その子の長所に目を向けましょう」「長所を伸ばしましょう」というような支援方針を掲げる支援者は少なくありません。 私自身も発達相談の中で、長所やその子の持っている資質を活かし、伸ばしていくようなアイディアをお伝えすることはあります。 しかし、そこには段階、タイミングがあります。 長所や資質を伸ばす前段階があるのです。 それは当事者、本人たちの言葉から教わったことです。 発達に凸凹がある人達がいくら才能、長所の部分を伸ばそうとも、凹んだ部分の苦しさは消えないと言います。 いくら瞬間的な記憶ができても、いくら丁寧な作業ができても、いくら文章や創作活動が上手でも、寝られなければ辛いし、過敏性は生活に支障と制限が出てします。 発達障害の人達が苦しむのは社会参加ができないことでも、友達ができないことでも、学校で同級生と同じように学べないことでもありません。 それ以前に、自分自身の身体に苦しんでいる。 「合理的な配慮」は機会均等には役立つでしょうが、身体で生じている苦しさをなだらかにすることはできないのです。 発達障害の人の才能を活かせる場所はあるかもしれない。 でも場所は変えることができても、自分の身体はずっとついて回る。 ですから私たち支援者、援助者はまず彼らについて回る身体に対するアプローチ、凹の部分への援助が必要です。 その課題は多岐にわたり、また複雑に絡み合っていることが多いので、ターゲットを細かく分けてトレーニング、リハビリ、発達援助をしていきます。 当然、その取り組みの段階では本人の凹の部分に負担がかからない環境づくり、環境設定も大切です。 日常生活がその人にとって楽なものになることも心身に余裕を生み、脳の発達を促すことに繋がります。 そして苦しみの中心である身体の課題が弛み、改善したあと、長所を伸ばす方向へと進むことができるのです。 「個別指導」「一人ひとりに合わせた学習、指導」を否定する人はほとんどいないでしょう。 しかし上記のような身体の不具合、凹の部分...

【No.1473】個性を埋没させる測定からテーラーメイドの測定へ

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ずっと昔は「脳の機能障害」というざっくりな表現でしたが、いまは科学技術の発展により脳機能の状態を画像で確認することができるようになりました。 どこの部分が低下していて、どこの部分が平均、または平均以上か。 そしてどこの部位とどこの部位の繋がりが強いか、弱いか。 つまり、発達障害は脳のシナプスの結合が少なかったり、逆に多すぎたりすることが原因だと考えてよさそうです。 そのつながりの部分が各個人によっても違いますので、行動など目に見える形での表現は無限です。 これが一人として同じ人がいない「個性」としてみられる。 同じ自閉症、ADHD、LD、知的障害といわれる神経発達症のグループであっても、その出方は一人ひとり違っています。 だから本来なら、一人ひとりのものさし、指標、検査が必要だといえます。 いま、世の中で実施されているもののほとんどは、共通のものさしでの測定です。 個性的な障害に対して、個性が隠れてしまう測定を行っている。 「より多くの加算、支援を得るために、知能検査の前日は遅くまで起こしておく」というのは、そのことを象徴している話だといえます。 測定が「重度」というカテゴリーに入れるためのもの。 「重度の自閉症」と言われても、その子の顔が浮かんできません。 当然、顔が見えないのですから、育て方もみえてこない。 「重度」も、「自閉症」も、「IQが56」も、子育てには関係がない。 「私たちが聞きたかったのは、この子の育て方だったのに」という感想を投げかけられても、検査機関は困るのです。 個性を埋没させる測定しか行っていないのですから。 子育てに必要なのは、テーラーメイドの測定です。 この子が育った、成長した、ポジティブな変化が起きた、と確認できる指標を作っていくことが望ましい。 たとえば、「縄跳びを1回跳ぶ」→「縄跳びを〇回跳ぶ」→「他人が回した縄跳びを1回跳ぶ」→「他人が回した縄跳びを〇回跳ぶ」→「自分が回した縄跳びをママが1回跳ぶ」→「自分が回した縄跳びをママが〇回跳ぶ」→GOAL「友達との身体的な距離感が適切になる」 みたいな感じです。 わかる子だったら、こういった指標を本人に説明して理解しながらやってもらうのが良いと思います。 私は成人の方の相談の際には、こういった指標づくりを一緒にしています。 そうすることで、共通の話題になって、「その目標に向かって頑張りま...

【No.1472】親御さんが認知している子ども

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昨日の 頑張るに関する記事 に「良かった」「わかりやすかった」「納得できた」というリアクションが多くありました。 感想をくれた方、いつも読んでくださっている方、大変励みになります。 自分では多くの方に共感してもらえたんだと解釈しています。 このブログで大切にしていること、いや、私自身が行っているすべての活動で大切にしていることは、言語化することです。 昨日の記事でもそうですが、「そうそう。私がひっかかっていたのは、そのことなの!」というようにすでに気づいていたけど、言語化できずにモヤモヤしていたことを言葉にすることを中心に考えています。 日々、子どもを見ている親御さん達がアセスメントできていないなんてことはありません。 「私、子どものことをちゃんと見れていない」という悩みを相談される親御さんは多いですが、見れていないのではなくて、感覚的に捉えていることに対する適切な言葉を持っていないだけです。 ほとんどの親御さんは子どもさんの本質的な課題、その行動の背景に気が付いています。 「アセスメントができていない」と思わせるのは、アセスメントを売ろうとする専門家の営業戦略です。 「子どもを見る」「その行動を観察する」という誰もが自然に行っていることを「アセスメント」という横文字を使い、親御さんの手から取り上げようとしている。 「アセスメント」と聞けば、「なにか特別なことを」「なにか専門家にしかわからないことを」と連想してしまう。 その習性や親御さんの不安を刺激するために、アセスメントに限らず、ギョーカイは専門用語を作り、それを専門家しか扱えない高度なものに仕立て、売ってきた。 で結局治らないし、普通の子育てを諦めさせる結果を生みました。 ギョーカイは障害を持つ子の"親"ではなく、障害を持つ子の"支援者"を大量に作り出していきました。 愛着障害のたまり場であるギョーカイが、新たな愛着障害を生産していく。 いろんな検査、アセスメントがありますが、それは人工的に作られたものさしを使って、長いか短いか、多いか少ないか、当てはまるか外れているか、を見ているだけです。 でも親御さんは時間的にも、空間的にも、環境的にも、その子を多面的で立体的に捉えることができています。 この力を活かさずして、その子の発達を後押しすることができるのでしょうか。 日々接...

【No.1471】その療育、トレーニングが「マッチしているか?」の見分け方

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「療育機関でトレーニングを受けている姿を見てほしい」とお願いされることがあります。 たしかに成長はしている。 事実、地域の評判がよくて、利用の待機者もいる。 でも、そこで行われている専門的な療育がこの子に合っているのか、この子のどんな発達に寄与しているのか、わからないから、判断がつかないから「第三者の視点で見てほしい」という依頼があるのです。 療育機関に限らず、児童デイや児発、学校を見学するときも、いや、家庭での取り組みを見るときも私は子どもの反応に注目します。 そのトレーニング、活動に「没頭している」「熱中している」姿が確認できればOKです。 その取り組みとその子の「今育てようとしている発達(課題)」とマッチングが良いと判定できます。 反対にその取り組みから「逃げよう」「避けよう」としていれば×です。 これはとてもシンプルで、特別な話ではないでしょう。 しかし、一つ判断が間違いやすい子どもの反応があります。 それは「頑張っている」です。 頑張って身体を育てるリズム運動をしている。 頑張ってコトバの練習をしている。 頑張って細かい手の動きを練習している。 親御さんとしては我が子が頑張る姿をみるのは喜びでもあり、ポジティブな評価をしてしまいがちです。 当然、スタッフも「〇〇くん、今日のトレーニング、とっても頑張っていましたよ」と笑顔で報告してくれます。 もちろん、できないことをできるように“頑張る”というのは素晴らしいことですし、成長や自立のために必要なことです。 でも、発達に限って言えば、「頑張る」は×です。 子どもの視点に立てば、自分の興味関心から“ズレている”から頑張ろうとします。 身体や感覚に必要な刺激とズレているから頑張って立ち向かい、刺激を受け入れようとしている。 赤ちゃんが手足を動かすのは、手足を育てようと頑張っているわけではなく、手足を動かすことで得られる刺激が心地よくて没頭しているのです。 自分の持っている手札の中から組み合わせを変えたり、総動員したりしながら挑戦する頑張りは応援です。 でも、発達の遅れやヌケ、凸凹の凹の部分に関していえば、頑張らせるのは危険です。 発達を促しているつもりが、学習を促してしまう危険性があるからです。 コミュニケーションとしてのコトバの発達を伸ばしたかったのに、りんごをみたら「リ」と「ン」と「ゴ」を続けて発声するスキルを...

【No.1470】必要なのは守られる空間?

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私は素朴な疑問として 「こうやってゲームや好きなことだけをして過ごしていて大丈夫なのでしょうか?」 「こうやって自由な環境を作り、こちらから働きかけをしないのはどういった理由からでしょうか?」 とフリースクールのスタッフの人に訊いたことがあります。 面白いことに、複数のフリースクール、不登校支援に関わっている人たちから同じ答えが返ってきました。 「彼らは休むことでエネルギーを回復している」 「エネルギーが溜まったら、自ら動き出すので、それを待つ」 これが全国的な不登校支援の考えなのか、それは定型発達の子だけに当てはまるのか、はわかりません。 しかし児童デイや相談支援、医師、支援級を進める特別支援コーディネーターからのアドバイスで、このような「休む」「傷ついた心を癒す」という言葉が聞かれることもあります。 私達も落ち込むことがありますし、精神的な疲労から動き出せないことがあります。 ですから心地よい環境の中で回復を図るのも良いと思います。 でも、それはあくまで回復するまでの“一時的なもの”ではないでしょうか。 フリースクールや不登校支援の教室をのぞくと、年単位で通っている子たちが多いことに気がつきます。 心身を休める回復する場所が、いつしか心地よい場所に変わっている気がします。 変わらぬ環境、変わらぬスタッフ、変わらなぬ自由な時間。 予定調和な空間は疲労した脳には刺激が少なく休むには良い環境。 しかし、脳の育ち、脳への刺激を考えると問題が出てきます。 とくに発達障害の子ども達にとっては。 脳はたくさんのエネルギーを使いますので、省エネを目指します。 身体や感覚に不具合があったり、食事や睡眠で問題があったりすると、その傾向がより強くなります。 発達障害の子ども達は疲れやすい、心身のダメージを受けやすい、回復しづらい、という場合が多いので、そうなるとより刺激の少ない、脳を働かせなくて良い環境を求めます。 長期化する不登校、ひきこもりの背景には、そもそもキャパが少ないゆえに刺激が少ない環境から抜け出せない、一歩踏み出せないということがあると思います。 そういった背景のある発達障害の子ども達に必要なのは休息よりも、脳のキャパを増やすこと。 本来なら身体や感覚が受け持つ部分までも、頭、脳が働き、処理してしまうため、新しいことに挑戦ができないでいる。 だったら援助の方向性としては...