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【No.1527】口では「治る」って言ってるけど

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『治る』には2つの意味がある。 病気や傷が“治る”っていうのが一般的で、最初にイメージするほうだと思う。 発達障害の分野でいえば、併存症である精神症状、うつとか、不眠症とか、そういったのが収まれば「治った」って言われる。 まあ、ほとんどは薬で抑え込むことで症状が出ないようにしてるんだけどね。 症状が「コントロールできている状態」イコール「治った」ってことにしようと医学界では決められている。 神田橋先生などの達人は一発で治しちゃうし、脳神経に対する科学的なアプローチで再発しない状態まで治療できる人もいるけど、まだまだ一般的じゃない。 もう一つの「治る」なんだけど、これは「育つ」の意味を含んでいると思う。 発達のヌケや未発達の部分、遅れを育て直していくことで、発達の課題をクリアしていこうという話。 発達障害は発達しない障害でも、神経が変化しない障害でもないもんね。 脳の神経回路がうまくつながっていなかったり、逆につながり過ぎていたり。 育つべき時期に育っていないことが、同世代の子ども達と比べて「遅れている」ように見える。 だったら、発達を促すような、神経回路がつながっていくような、育て直し、アプローチがそのまま治療になる。 自立や生活に支障がないくらいまで育ったなら、それは治ったという以外、言葉がないよね。 こんな話は改めてしなくてもわかってると思う。 それは「発達障害が治るなんてインチキだ」と言っている人たちも。 私達が長年、「治る」と言っているのは、遅れた部分が育ち、自立していくことだってことも。 繰り返しになるけど、発達が遅れている子も発達するからね。 治る否定派の人達も、子どもは発達するし、成長すると思っているから、療育に通っているんだし。 「もう少しで遅れた部分が定型に追いつく」その瞬間から発達しなくなるんだったら、それこそ、インチキだ。 遅れたところが全部が全部、定型まで育つとは言い切れないが、同世代と比べても変わりがないくらいまで育つ子もいるし、なんなら同級生よりも良く育っている部分がある子もいるね。 発達に遅れがある子ども達。 そんな子ども達がまったく、1ミリも育たないなんて思っている人はいないでしょ。 そしてそんな子ども達に育ってほしくない、できるところまで育ってほしいと思うのは、治るに対するスタンス関係なく一緒だと思うな。 じゃあ、何が違うの? 目指...

【No.1526】発達障害よりも、“子ども”ってことの方が大事

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発達障害よりも、“子ども”っていうことのほうがずっと大事だと思ってる。 子どもがどうやって発達するかっていったら、遊びだよね。 たくさん遊ぶことで身体が育つ。 外でいっぱい遊べば感覚が育つ。 ひとと一緒に遊べば社会性が育つ。 どの子も「これから発達させよう」とか、「ここからは発達の時間だ」とか、思って発達させてはいないよね。 有名な先生のもと、何時間もかけてアプローチを受けに行く。 子どもさんが高校生くらいならそれでも大丈夫かもしれないけど、幼児さんがそんな感じで出かけて行っても、集中して受けられるもんかね。 電車でも、車でも、その時間じっとしてないといけないから、身体がガチガチになるし、機嫌だって悪くなる。 だったら、近場の公園で自由に遊んでいるほうがずっと発達に繋がると思うな。 発達って、「今、刺激しました」「はい、発達します」ってことはないよね。 継続的な刺激が必要だし、脳(神経)に「この神経回路は必要性がありますよ」ってわかってもらわないといけない。 それには生活の場面で、実際に使うような神経回路じゃなければならない。 いくら子どもの神経でも、日ごろ、使わないような(余分な)回路は作られないからね。 特定の先生、特定の機関で、療育や施術、様々なアプローチを受けている家庭って多いと思う。 見ている限り、子どもは楽しそうに受けているし、ちゃんと最後までやることができている。 そんな姿を見ると、親御さんとしては安心したり、効果を期待したりすると思うんだけど、そこで、その場面で、その時間で終わっていることって多いんじゃないかな。 療育機関でできているけど、家や園ではできない。 本人も頑張ってるし、長い期間、通っているけど、じゃあ、発達が進んで当初の課題が解決できているかと言えば、そうではない。 塾のように定期的に通ってうまくいく場合は、コツを掴んだ時だけだと思うな。 すでに獲得している神経回路があって、先生の関わりをきっかけに別の神経回路と繋がるって感じ。 この動きと、この動きを合わせたら、新しい動きができた、というような。 だけど、発達障害って、発達の遅れやヌケなんだから、コツを掴む、新しいスキルを獲得するのとはやっぱり違う。 コツコツ刺激し続けることが必要なんだ。 習ってきたことを家でもやってみるという家庭も多いでしょう。 これは「コツコツ刺激する」ことになるか...

【No.1525】豊かさのあるアプローチ

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さっき調べたら花風社さんの書籍『自閉っ子心身をラクにしよう!』が出版されたのが2014年ってわかってびっくり。 なんだか最近出たような気がしていたし、もう12年も前のことだって。 今日から11月というのもそうだけど、とにかくときが経つのが早い、年取ると。 当時を思い返せば、かなりインパクトがあって、それこそ象徴的な『金魚体操』は全国どこのおうちに訪問してもやってましたね。 私に対するリクエストでも、「金魚体操をしている様子を見てください」「合っているか、教えてください」「大久保さん、やってみてください」というのが多かったですよ。 あちこちで、いろんなご家庭で金魚体操、私もしてました(笑) それからときが経ち、やっぱり20年以降は徐々に実践する家庭が減ってきた。 2014年、まだお母さんじゃなかった人たちも増えてきたからね。 でも私は子どもさんを見て、有効だなと感じる家庭には今も伝えてる。 金魚体操って、ひとによって意味が変わってくると私は考えています。 身体の緊張を弛める意味での人もいれば、頭と身体の繋がりをよくする意味の人もいる。 またトラウマ処理に繋がる人もいれば、親子の触れ合い、息を合わせる行為自体が愛着形成を進める行為となっているケースもあった。 他にも、金魚体操の効果というよりも、金魚体操を通して子どもを観察する力、日々の変化に気が付く力を養った親御さんもいたね。 「子どもの身体は揺れることによって歪みがとれる」というのは古くから言われていたことだけど、金魚体操はそこに留まらなかったのがポイント。 金魚体操はひとによって意味合いが、効果が変わってくるという点が優れていたから、あれだけ広まったんだと思っています。 なにか一つだけをターゲットにしたアプローチはつまらないもんね。 だけど、当時から私は伝えていたけど、1年も、2年も、毎日、続けるもんじゃないってね。 もし毎日、金魚体操しなければならない身体だとしたら、身体側の不具合、発達のヌケが育っていないということだから、それは問題。 そうじゃなくて、ただ「良いから」っていうので続けていても問題。 子どもの成長のゴールは自立だから、金魚体操が自分でできるようになる、金魚体操で得られた効果を別の形で、ひとを介さず自分で完結できるものへ変えていく、っていうのが大事でしょ。 この視点がないと、子どもの身体が大きくなっ...

【No.1524】「良いアプローチ、やめたほうが良いアプローチの見分け方ってありますか?」

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昨日相談があった親御さんから「良いアプローチ、やめたほうが良いアプローチの見分け方ってありますか?」って聞かれたんです。 少し前だったら、「直感で」とか、「我が子の伸ばしたいところから、まずはそれに合うものを選んでみては」とか言ってたんですけど、いま、かなり選択肢があるでしょ。 ネットで検索してもそうだし、SNSとかおススメでどんどん流れてくるし。 書店に行っても、発達障害のコーナーはいつも新刊が出ているし。 だから、ある程度、絞ることも大事かなって思っています。 良いアプローチはその子の発達や成長に繋がれば、どんなアプローチも良いわけです。 支援者だってベテランとか、有名だとか、そんなもんまったく関係なく、それこそ、近所の人が、人じゃなくて海や川などの自然が子どもの成長を後押ししてくれるってことも大いにあります。 で、良いアプローチはそれぞれだけど、やめといたほうが良いアプローチは明確なのが一つあります。 それはマニュアル化されているもの。 「手順がこうで」「教わった通りやってください」というようなアプローチはまず選択肢から外していいですよ。 世の中、結構、この「マニュアル化」「教わった通り」というアプローチがありますね。 それこそ、私がTEACCHから離れたのも、この理由からです。 この話って過去にしてましたっけ。 まあ、良い機会なので続けますが、TEACCH自体の理念に「個別化」があります。 でも、ライセンスビジネスが始まった頃から、支援者が独自にアプローチを変化させ、実践することが禁止になりました。 もちろん、現場ではどんどんアレンジしていたのですが、そういった声明、指示が出るようになった時点で、私は「もう終わったな」「ここが限界だな」と思ったんです。 今もそうなっているかわかりませんが、認定者以外はTEACCHを語った支援をやってはいけない、メソッドを他の人に教えてはならない、と誓約書まで書かせてからトレーニングの受講が始まってましたね。 で現在はどうですか。 もうひと昔のように「TEACCH、視覚支援、構造化」って言わなくなったでしょ。 たとえば、金魚体操だって、子ども一人ひとりやり方は違うわけです。 ただ揺らせばいいってもんじゃない。 子どもの反応(呼吸や筋肉の状態、子どもの表情やしぐさなど)を観察しながら、変化に合わせて加減を変えたり、時間を変えたり...

【No.1523】信じるのはアプローチか、支援者か

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私はアプローチに関しては信頼したり、信用したりします。 かつてギョーカイのど真ん中にいたとき、TEACCHだって、ABAだって、SSTも、PECSも、全国各地、ときに海外に行き、そこで学び、当然、実践もしてきました。 今思えば、「遠回りしたな」と感じますが、当時、私は必死に学びましたし、その当時としては、私が関わった子ども達、成人した人達において効果を感じていました。 そのアプローチが生まれ、広がるということは、その時代、その社会においては意味があったと考えています。 もちろん、まったく効果がない、合わないような人もいましたが、それはその人にアプローチが合わなかっただけ。 そしてどんなアプローチも万人に効果がある魔法のようなものはありません(もし万人に効果があるアプローチがあったのなら、それは個別化が難しくなり、効果が限定的、薄くて広いものとなる)。 古今東西、当時の有名支援者、専門家の生(なま)の実践と、実践を受けた子ども、家族の様子も見てきましたが、評判ほど当てにならないものはない、というのがわかりました。 肩書だったり、初めに言いだした人だったり、腕よりも口、宣伝がうまい人だったり、テレビやメディアに出た人だったり…。 つまり、アプローチは信用するけど、専門家、支援者を信用することはない。 アプローチは嘘をつきません。 アプローチはアプローチ自身の利益のために動きません。 アプローチは愛着障害も、金銭欲も、承認欲求ももっていないのです。 だけど、支援者は人間で、そういったものを持っていることがある(多い?)。 「障害を持った人と関わるんだから、それを生業にしているだから、きっと心の綺麗な人だろう」というイメージが一般的にはあるかもしれませんが、清廉潔白な支援者、そういった人間ができた人なんてそうそういません。 いても、ただ優しいだけの「無益無害な支援者」もいる。 「腕が良くて、清廉潔白で、真摯に耳を傾けてくれる誠実な支援者」 支援者に依存していく親御さん達を見るたびに、「そういった人として、その支援者のことを見ているのだろうか」「よくもまあ、支援者のことを信じられるものだ」と私は思っています。 みなさん、知らないのです、特定の支援者にどっぷりはまった家族の末路を。 最初は有意義な情報、支援を提供してくれていた、得られていた。 だけど、支援には限界があるから、あ...

【No.1522】思ったような効果が得られない理由

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今日は朝から雪が舞う函館。 とうとうやってきました、北海道の冬が。 寒さと雪かきに耐える4か月が始まります。 先週行った徳島は気温が25度を超えていたので、気温差でいえば20度くらい。 「徳島は気候も、人も、温かかったな~」なんて思いながら完成した報告書を郵便局で出してきたところです(土日を挟むようなので月曜日にお手元に届く予定です)。 今回、訪問した徳島のご家族に限らず、「初めての専門家、支援者が大久保です」というケースはほぼゼロです。 すでに家庭で取り組みを行っていたり、地域の専門家、療育や相談機関を利用されています。 ですから、私のところに相談の依頼があるご家庭は「やってるんだけど、期待される効果、変化が見られない」ということになって、当然、私はさまざまなアプローチの結果を含めて、アセスメントすることになるのです。 ニーズは「どうして伸びないのか?」「ほかにやるべきところがあるのではないか?」「アプローチの取捨選択を含めた家庭での取り組み、子育て全般への助言」の3つが中心。 では、なぜ、良いと言われるアプローチをやっているのに期待するほど伸びないのか、効果が得られないのか。 まずアプローチ側の原因としては、「そもそもそんなもん」というのが多いですね。 その効果を謳う根拠が曖昧で、多くは利用した当事者の声になります。 劇的に良くなった人もいるのでしょうが、それは100人中1人か、2人くらいなもの。 あとの99人は声を上げないで、次を探すのです。 治したい親御さんは1つの場所に留まっている暇はありませんからね。 また最近のアプローチはどんどん細かくなって、「目の発達を促す」とか、「口を育てる」とか、まるで身体を切り刻むかのような印象を受けます。 大人ならまだしも、子どもってそんなターゲットにした部分だけ育つことってありますか。 神経はさまざまなところと繋がっているのですから、育つなら全体が育っていくはずです。 この頃よく見かけるのが、特定の身体の部位、特定の動きだけやたらうまい子です。 「土台となる発達から育てていく」という視点が抜けているのもあるでしょう。 これに関連して、アプローチを効果的にするための前提となる発達が抜けていたり、アプローチを行うために必要な発達や能力が抜けていたりすることもあります。 アプローチを選択する親御さん側の原因としては、専門家、先生...

【No.1521】それまでできていたことができなくなったとき

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この前、相談があった家庭の子どもさんは、学校から帰ってきたらずっとゲームと動画視聴するとのこと。 でも、それだけなら「学校で頑張ってきたんだし」「我慢してきたこともあったろうし」と思うんだけど、片付けとか、身辺面のこととか、勉強とか、できていたことがどんどんできなくなっている、だから心配なんです、という相談でした。 みなさんは、どう考えるでしょうか。 結構、あるあるの話ではないでしょうか。 ゲームや動画を観るのが好きな自閉っ子は多く、それ自体は否定するような話ではないと思います。 でも、「できたことができなくなる」という状態は気になるところで、こういった状態から推測するに本当に好きでゲームをやっているのだろうか、という疑問が浮かびます。 好きなことに没頭できているのなら、脳はリフレッシュすることはあっても、退化することはないですよね。 発達障害を持つ子の脳は凸凹や遅れがあっても、常に「前進あるのみ」で脳が発達し続けることには変わりがありません。 「それまでできていたことができなくなる」 ということは、“その頃”と“今”に違いが生じている可能性が高い。 その違いはなんだろなと確認してみたらわかりましたよ。 時々、突拍子もないことを言ったり、うまく友達と関係が築けなかったり。 それでもまじめに普通級で頑張って勉強していました。 その姿を見て、担任の先生が2学期から役割を任せてくれるようになったんですって。 で、学芸会でも大きな役割が与えられて…。 まあ、これを「プレッシャー」「ストレス」とひと言でいってもいいんだけど、もうちょっと説明すると、情報や刺激が増えたことに対する防御策でゲームに没頭、という感じです。 それまで大きく変わることなかった学校生活において、急にやること、求められることが増え、脳内に過剰な情報と刺激が流入してきたのでしょう。 そこへの対抗手段としてゲームの世界に没頭することで、これ以上、いろんな刺激が入ってこないようにした。 いろんなポイントがあったけど、ゲームをやっているとき、全然楽しそうじゃないのが大きかったですね。 きっとこの子なりの工夫だったんだと思った。 学校の先生は期待を込めて、いろんな役割を任せてくれたんだと思ったし、きっとこの子なら乗り越えられる、成長に繋がるという考えが親御さんと一致したから、「家の中で工夫しましょうね」って話をしまし...

【No.1520】過去からの、未来からの発達援助

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発達障害、発達の遅れというのは、アプローチや援助の仕方によって改善することができる。 というのは希望だけど、同時に後悔の念を強くするね。 私のところに相談にくる親御さん達は「発達障害は治る」という希望だけをもってきている人はいなくて、大きな希望と同じくらい大きな後悔をもっている場合がほとんど。 「介入や環境によって発達の仕方が変わる」というのは脳神経に可塑性があるということで、それは良い方向に変わることがあれば、悪い方向に変わることもあるってだからね。 「発達障害は治る」というからには、そういった大きな後悔を抱えていることまで受け止め、援助する覚悟が必要だと思ってるんだ、私は。 だから「発達障害は治らないけど、よくなる」という主張をしている支援者はたぶん、そういった親御さんの持つ後悔を抱えるだけの覚悟がないんだと思うな。 つけこんで信者化させるのは言語道断だし。 「親御さんは悪くない。 発達障害はたまたま、偶然、天から舞い降りてきたようなもの。 だから、育て方のことはいわないで、後悔しないで、関係ないから」 それは一時的な助けや癒しになるかもしれないけどね、一方で親御さんの育てる力、養育力を暗に否定していることにもなってるよ。 支援者が提示する援助が「ちょっと改善するけど、物足りない。根本的な解決には至らないなぁ~」と感じるのは親御さんを参加させずにうわべだけいじくるから。 一言でいえば、「親受けする見栄えの良い療育」だな。 「妊娠前に自分の身体をもっと大切にしておけばよかった」 「赤ちゃんの頃、テレビをつけっぱなしにしなければよかった」 「小さいとき、動画を見せ続けていたのが後悔」 「もっと眠ること、食べること、排泄することを大事にしておけば」 「親子の関わり、スキンシップを大切にできていれば」 たくさんの後悔の言葉を聞いてきたし、これからも聞いていくんだと思う。 いくら悔やんでも過去に戻れない。 でもね、現在が変わることで、過去が変わることがある。 発達援助の視点を子育てに取り入れ、子どもの成長を感じるようになると、過去の後悔が消えていくことがあります。 でも、それは後悔が消えてなくなったということではなく、過去の見え方が変わるんだと思うんです。 「あんなことしなければよかった、避ければよかった、もう少し良い子育て、関わり方があったかもしれない。 だけど、その親...

【No.1519】バチッとはまる方法を探し求めるのか

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いろんな療育、アプローチが現れては消え、現れては消えを繰り返してきたね。 長年、この世界にいるけど、誰にでも、万人に効果がある方法などなかった。 時折、バチっとはまる子がくれば、絶大な効果を上げる。 でも、それはだいたい100人に1人くらいなものだったでしょう。 その100人に1人の恩恵があった人が「この方法は素晴らしい」「とてもよい先生だ」「ぜひ、あなたも受けてみて」と宣伝し、支援者は喜び、どんどん肥大化させていく。 客観的に見れば、成功したのが1人で、変わらない、効果なし、逆に悪くなったケースが99人いたとしても。 ひとは都合よくできていて、自分が欲しい情報、自分が思い描く理想と合致するものを実態以上に大きく受け取ってしまうんだな。 どんな支援者、専門家も、癖があって、生きてきた人生の中で形作られたその癖を肥大化させて〇〇療法、アプローチが生まれているように私には見えてきた。 特定の方法を創始者の言うまま行おうとすると、違和感を感じるからね。 きっと私の中に生じた違和感は、その創始者の“癖”の部分なんだと思う。 だから私はこうしてきたんだ。 どんなに優れていると言われる方法であったとしても、そのまま全部、受け入れることはしなかった。 創始者の癖と私の癖がぶつからないようにするために。 だけど、その方法が持つ“型”には注目したよ。 その型を学んで、型を自分のモノにできるよう努める。 型はいくつあってもいい。 型どおりにやることは実践では役に立たないけど、長年で染みついた自分にある“癖”を整え、その癖から自由になることができるからね。 これは支援者、援助者の一人としての見解だから、じゃあ、選択する側の親御さんはどうしたらいいかってところが気になるでしょう。 1%のドはまりを目指して、いろんな方法、専門家をあたるのも選択の一つ。 もう一つは、親御さんが「良いな」と感じる方法のエッセンスだけを抜き取っていくこと。 「良いな」という直感があるのは、その方法か、創始者の癖と自分の癖が近いということで、その創始者のように自在にアプローチを変化させることができる可能性が高いという意味。 そんな方法から良いと思うエッセンスを抜き取り、自分の子育て、我が子の発達援助に活かしていくんです。 習った通り、教わった通り、書いてある通りにやろうとする人が多い。 まじめで、失敗できないと思う...

【No.1518】支援はすべて“あやつり”に

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診断や検査、テストを受けると、支援者側から「あなたにはこういう特徴があって、こんな課題があって、こんなんしたほうが良い」というようなことを言われるね。 これは当たり前に、どこでも行われていること。 疑問に思う人も少ないんじゃないかな。 だけど、これって支援者が「当事者のことを知るために情報を得る」「得た情報を当事者に教えてあげる」「知った情報をもとに支援を提供する」という形になっていることが多いと思う。 言い方が悪いかもしれないけど、当事者が支援者の材料、飯のタネになっている感じがするよ。 本来、検査やテストは当事者、本人のためのものでしょ。 結果を受け取って満足ではいけないね。 結果を実生活に活かしていくことも大事だけど、それよりも検査を受けるプロセスのほうがずっと大事だと私は思うんだ。 だから、「自分を知りたいな」「客観化された自分というものを、データ化された自分を見てみよう」という意欲が育ってからテストは受けたいね。 その意欲があると、テスト項目の一つひとつが自分を知るための作業になって、検査者は本人が自分を知るための作業を手伝う者になる。 そうなると、テスト自体が、その時間、機会すべてがとっても価値があるものになると思うな。 ほとんど意味も分からない中、連れてこられて、一方的に提供される検査、テストを受ける。 そうなると、検査をする側とされる側、情報を持っている側と持っていない側という図式になってしまう。 だから、検査後の実生活にその結果が活かされていかない、いけないんだと思うな。 「行政的なサービスを受けるために必要なんだ」と言いたいんだろうけど、こういった姿勢が変わらない限り、支援の枠から出ることはできない。 主導権が支援者側にある間は、提供されるサービス、支援はすべて“あやつり”になっちゃうからね。 残念ながら入り口が診断、検査、テストになっているのがこのギョーカイです。 年端もいかない子どもに「自分を知りたい」と意欲を育てることは難しいでしょう。 そうなると、意欲を育て、高めるのは親御さんになる。 手続き上必要だから来ているのか、我が子を知るために来ているのか。 この入口、どっちから入るか、スタートするかで、その後の子どもの歩みが変わっていく。 やっぱり検査結果より、どんな姿勢で受けるか、受けるまでのプロセスが大事だね。 ▶発達相談の内容・お問い合わ...

【No.1517】その問題行動は「自己完結か、巻き込みか」

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「問題行動」とひと言でいっても、内容、様相はさまざま。 だけど、基本的な見立て、支援、援助の組み立て方として押さえておいてもらいたい点を今日はお話しますね。 まず注目してほしいのが『頻度』 日々、日常的にそれをやっているのか、それとも週に1回とか、なにかがあったときなど、不定期に行っているか。 日常的な場合は、それ自体がストレスに対する対処行動になっている可能性が高いですね。 つまり、心身を安定させるために行っている、やむを得ずって場合もあるけど。 こういった対処行動としての行為を止めちゃうと、禁断症状が出るのが自然な流れ。 たとえはよくないけど、精神安定剤とか、ドラッグとかで精神を落ち着かせている人から取り上げちゃう感じに近い。 問題行動を必死に止め続けた結果、どうにも手が付けられないくらい状態が悪くなる、行動障害から強度行動障害へというパターンがそれ。 見ていて辛くなるし、本人も辛かろうという気持ちはわかるんだけど、精神安定剤としての、辛い現実への対処行動としての問題行動という視点がないと、こういったことが起きちゃう危険性がありますね。 一方で、定期的ではないランダムな問題行動の場合は、ストレスの蓄積からの爆発だったり、単にその直前の出来事が嫌だったり、うまく伝えられないことによる代替手段としての筋肉活動だったりすることがあります。 または幼さゆえの行為だったり、発達のヌケや遅れのための未熟な行為という場合も。 時たま見られる問題行動の場合、本人と環境の間でうまくいっていないことがあるかもなという視点で見ていくと背景が掴めることが多いと思います。 頻度と同じくらい注目したいのが、『自己完結か、巻き込みか』です。 自己完結というのは、一人で行って、一人で終える形態になります。 自分で自傷して、ある程度、やりきると落ち着いてやめるパターン。 一方で巻き込みは、同じ自傷であったとしても、誰かがいないと行いません。 たとえば、お父さんがいるときだけ行うとか、家族が傍に来るとやり始めるとか、特定の先生、支援者のときだけ行うとか。 こういった場合、行為を介して関係を作ろうとしていると考えられますね。 発達的により望ましい関係性を築く手段がとれなかったり、より早く直接的な関わりを得たいがためにインスタントな方法を選んじゃったりして。 結構、問題行動と言われる行為の中で、「関係...

【No.1516】チャッピーが支援目標を立てる時代

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個別支援計画とか、個別支援目標とか、もうすでにだいぶチャッピーが書いてるんじゃないかな。 非の打ち所がないきれいな文章が目立ってきたからね。 公文章としては完璧みたいな。 普通の親御さんなら、それを見ただけで「もうお任せします」ってなっちゃいそう。 一字一句、AIが作成した通りの文章を載せる人はまだ少ないだろうけど、障害名と子どものプロフィール、あとは「コミュニケーションの目標を立てて」なんて打ち込んで出てきたものを参考にしている人は多いと思うね。 「目標を立てるのがうまくなって、臨床の力が落ちる」という時代がやってくるでしょう。 パソコンの文字を見ていても、アセスメントの力とか、援助技術は上がっていかないからね。 臨床の場面ではノンバーバルな情報の割合が圧倒的に多いといえます。 とくに発達に凸凹がある人や子どもさんの場合はそうなるね。 言葉を話す子だったとしても、何を言っているかよりも、音程の高低、リズム、なめらかさ、反応の時間のほうがずっと意味があるアセスメントになります。 そして私たちは目を使って、表情の変化、態度、行動、しぐさ、呼吸の状態(リズム、深さなど)を絶え間なく観察してるんです。 そうやって子ども達から発せられるあらゆるノンバーバルな情報から、今の発達の状態や課題、今後、どのような援助が発達を後押しすることに繋がるかを考えていきます。 だからAIばかり使っていると、どんどん言葉ばかりでっかくなって、大事なノンバーバルな情報を捉える力が衰えていくと思うんですよ。 子ども達のリアルタイムの変化に応じて、パパっと支援や援助、指導が出せないといけないんだけど。 支援者には誰でもなれる時代になるから、その子の成長に繋がる支援ができる人を探すほうが大変になると思うね。 「チャッピー、ちゃんとした支援者を教えて」なんてAIに訊く時代がくるかも(笑) 支援者もランク付けがされて、一覧になったら便利だね。 あとAIでいえば、出てくるのは過去の情報が整理されたもので未来じゃないよね。 「行動障害に対する援助法は?」と尋ねれば、過去、ギョーカイの先生たちが言っていた内容が羅列されるだけ。 「自閉症児に対する支援で良いのは?」といえば、視覚支援やABAって回答があるみたいな。 だけど、それは過去に良いと言われていたものであって、現在じゃない。 ましてや、目の前にいるその子に...

【No.1515】×失敗したときの原因探し 〇成功したときの原因探し

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子育てをしていて「うまくいったなぁ~」と思えることは少なくて、「失敗したな」「まずかったな」「よくなかったな」と思うことのほうがずっと多いよね。 発達相談の中でも、「ほんとうまくいかなくて…」という話を聞くことが多い。 まあ、うまくいってたら、そもそも相談しようとは思わないでしょうけど(笑) 発達に凸凹のある子の子育ては、毎日が失敗の連続だと感じるくらい四苦八苦しながら、みんなやってるんじゃないかな。 で、そういった親御さんの悩み、相談を支援者側は受けることになる。 まじめで、素直な支援者ほど、親御さんの失敗談に真摯に向き合い、「どうしてでしょうかね~」「なにが原因でしょうかね~」とやる。 いや、やってしまう。 私はそれはやらないんだ。 なんでかといえば、うまくいかなかった理由って、いくつもあるから。 単純に「〇〇がよくなかったから」なんてことにはならない。 いろんな悪条件が重なり合って、よくない結果、失敗だと感じる状況が生まれるもの。 親御さんの関わり方としてはよかったけど、その子の体調が悪かったり、ほかの刺激に意識が奪われていたり、発達の順序的に前後がズレていたり、タイミングよく(悪く?)お父さんが帰ってきたり(笑) 行動療法系の人達が好むようなA(原因)→B(結果)みたいなきれいな図式は作れないの、うまくいかないときって、現実世界ではね。 「先行条件→行動→結果」なんてきれいすぎるでしょ。 つまり、これはお勉強するための机上の空論(笑) 一方で「今の関わり、今日の関わりはうまくいったなぁ~」と思うことがあるでしょ。 そんなに多くないかもしれないけど、どんなおうち、親御さんにもあるはず。 そっちのほうは「なぜ?なぜ?」って聞くことが大事。 それはいいこと、うまくいったことって、原因が1つか、2つくらいしかないから。 トイレでおしっこが成功したのは、水分量とか、トイレの照明の具合とか、遊びの内容とか、時間帯とか、気温の暑さ寒さとか、「すべての条件が整いましたので、初めてトイレでおしっこできました」なんてことはないでしょ。 お母さんの声掛けのタイミングが良かったとか、尿意に意識が向くような言葉掛けだったとか。 そんな感じで原因がシンプル。 そこを「なぜ?なぜ?」と掘り下げていくと、「そうかタイミングが合えばできるんだ」「じゃあ、前兆を捉えるのがポイントだね」「前兆っ...

【徳島出張のご案内】10月24・25日

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【9月29日13時現在】 徳島県内、ふた家族の訪問が決定しました。 あとひと家族でしたらお受けすることができます。 ご検討中の方がいらっしゃいましたら、お早めにお問い合わせください! 【10月3日13時現在】 今回の出張での訪問予定がすべて決まりました。 告知に協力してくださった皆様、ありがとうございました。 当日、お会いできることを楽しみにしております。 徳島にお住いのご家族から出張相談の依頼がありました。 遠方からのご依頼の場合、まずは花風社さんから出版していただいた書籍を読んでみてください、メール相談を利用されてはいかがですか、という提案をしています。 やっぱり遠くなると、日帰りでというわけにはいかず、交通費や滞在費がかかってしまいますから。 ですが、今回、ご依頼があった方はすでに書籍は読まれていて、ブログ等のSNS等もチェック済み。 「たとえ自分たち、ひと家族になったとしてもお願いしたい」という強い意思を伺いました。 ご家族からの強い意思は、そのまま我が子への強い想いの表れなのだと思います。 数多ある相談先、援助者の中から、「私を選んでくれたことに応えなくては!」と私も強い想いをもちました。 てらっこ塾開業14年目にして初めての徳島、四国出張。 今まで出張の問い合わせがなかった地域ですので、他のご家族から依頼があるという自信はありません。 が、躊躇なく私が出張できる一番早い日程で航空券を押さえました。 函館からですと、羽田経由で徳島空港なのですが、都合のよい時間、便がなかったため、伊丹空港を利用し、あとは高速バスで徳島に行くことに。 まずは徳島で募集して、ニーズがなければ、四国か、大阪、兵庫あたりに広げてみようかなと思っています。 それかいっそのこと、なかなかいけない四国なので、一日、個人的な観光ということにしてもいいかなとも。 そうすれば、滞在費を大久保個人にでき、相談の料金を減らせますので。 10月23日(金)は午後、伊丹到着。 もし夕方から夜の時間でもよければ、大阪、兵庫にお住いの方の発達相談お受けできます。 10月24日(土)は未定。 10月25日(日)は午後の便で函館に戻りますので、ご依頼くださった徳島のご家族の訪問にするか、大阪に戻って発達相談を行うか…。 ということで、ここは皆さまのお力が必要です(笑) リツーイト、拡散、よろしくお願いします...

【No.1514】子どものことを語ろうとすれば、まとまらなくなるもの

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メール相談の件数も以前より落ち着いてきて、一日3件程度、多いときで10件くらいになりました。 それでも開業当初から数えれば、相当な件数の相談、メールでの助言を行ってきたことになって、我ながらよく続いたな、続けてきたなと思います。 このブログを読んでくださっている人たちの中で、メール相談をやってますという方は少ないかもしれませんが、今日はそんなメール相談から得た発達援助のコツについてお話ししますね。 自分自身の相談は全体の1割くらいで、ほとんどが我が子の発達についての相談内容になります。 そしてそういった親御さんのメールには必ずといっていいほど、「文章がわかりづらくてすみません」「うまく伝えられない文章でごめんなさい」といった言葉が綴られていますよ。 これは「文章(書くこと)に自信がない」がないというよりも、息子や娘のことを詳しく書こうとすれば文章がまとまらなくなってしまう、ということだと思うんです。 日々、子どもと接し、誰よりも子どものことを見ていて、気づいている親御さんだからこそ、書こうと思えばうまく表現できなくなるのでしょう。 一方で、とても詳細に、かつわかりやすい文章で子どもの様子を綴り、相談内容もバシッと書いてあるメールもあります。 で、みなさんがご想像の通り、こちらの親御さんのほうが心配なんですね。 子どもという日々変化し、躍動する生である一人の人間のことを文章で表すなんて到底できることではありません。 同じ行動だとしても、外から見るのと、内から見るのでは違いますし、状況や状態、環境によってその行動の意味も違ってきます。 ですから、わかりやすいきれいな文章というのは、いろんなものが切り捨てられた結果なんです。 我が子に発達の遅れ、悩みが生まれた瞬間、親御さんはいろんな専門家といわれる外部の人間と関わることになります。 その際、必ずといっていいほど、成育歴や日々の子どもの様子、どんな点に困り、悩んでいるかを聞かれます。 「同じ内容なら共有すればいいのに」と思うのも当たり前で、機関が変われば、また同じ期間内であったとしても担当が変われば、学年が変われば、同じ話をしなくてはなりません。 そんなことを繰り返していくうちに、どんどん曖昧な部分、表現できない部分が削られていき、親御さんのほうもプロの語り部になっていく(笑) 気が付かないうちに、まとまった“話”ができて...

【No.1513】価値ある“こだわり”

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“こだわり”が強い子を傍でじーと見ていたら、なんだか同じところをくるくる回っているイメージが伝わってきました。 たぶん、この子の場合は、脳にその“こだわり”に関係する神経回路があって、そこを電気信号がグルグルと回り続けているんじゃないかと思ったんです。 しかも、一般的な人の脳とは違って、その興奮がなかなか醒めない。 そういった体質かもしれないし、後天的に、まあ、学習によってその神経回路に電気信号が流れ続けている状態が心地よいとなっているのかもしれないね。 “こだわり”というのは周囲から理解されないことも多く、「できればやめてほしい」「やめさせたい」といった相談も多く受けますよ。 でも、それが体質だったり、器質だったりすれば、完全にこだわりをなくすことはできないですね。 こだわる対象を変えたり、こだわる場所を変えたり、「こっちは都合が悪いけど、こっちなら良いです」みたいに、こだわりの矛先を少しずつ変えていくのが現実路線となります。 こだわること自体に価値を持っている人は、自分でもこだわりの形を変えていくことがあるから、子どもさんの場合、成長していくにつれ、環境と折り合いがつくような適当なこだわりになっていくことがありますね。 こだわりを資質として伸ばしていくイメージが持てると良いでしょう。 一方で「やむにやまれぬ」みたいな雰囲気が漂っているこだわりについては、それがたとえ周囲にとって受け入れがたいものであったとしても、対応は難しいです。 こだわることが、それこそ、その特定の脳神経回路の中を電気信号がグルグルと回ること自体がご褒美になっている。 こだわり行動をしているときは、その間だけは辛い何かから逃れることができる。 特定の神経回路を興奮させることで、させ続けることで、ほかの刺激から逃れることができているかもしれない。 「こだわり方を変えろ」と言われても、私にとってはこれが命綱であって、編み出したサバイバル術なんです、ってこともあるでしょう。 「不安&生きづらさがある→こだわることで対処→脳神経回路が強化」を繰り返すと、その行動の形自体を変えることは難しくなりますね。 生活に支障が出るくらいの強いこだわりを持っている人は施設内にたくさんいて、私たち支援員ができるのは、その特定の神経回路を興奮させるきっかけ、刺激を遠ざけることくらいでしたよ。 一度、スイッチとなる刺激が...

【No.1512】観察すると関係は切れる

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「観察」という言葉を使うときは気を付けているつもりでした。 あくまで観察する対象は症状や特性であって、子ども自身ではない。 しかも、その観察は「注意深く見る」という意味で、変化や経過を含めてしっかり見ましょう、ということで使っていたんです。 が、先日、相談者の親御さんが「大久保さんが言う通り、娘のこと、しっかり観察することを意識して過ごしました」と言って、ありゃ、まずいと思った。 その場で謝りましたよ、ごめんなさい、説明が足りませんでしたって。 もちろん、症状も、特性も、その子に出ていることだから、大きく言えば、子どもを観察していることには違いない。 でも、「観察」っていうのは「客観的に見る」ということになるから、関係が切れちゃうの。 子どもは親との関係の中で生きてるよね。 だから親から観察されると、子どもは寂しい気持ちになるんだ、独りぼっちの感じが出るから。 子どもについて詳細に語ることができる。 引き継ぎの資料作りも上手だし、SNSでの発信も手に取るように子どもの様子がわかるくらい素晴らしい。 だけど、子育てがうまくいっていないっていうのが典型的なパターンだね。 観察する側とされる側。 これは物事を教えるのには良い関係。 親御さんが子どもの宿題なんかを傍で教えようとすると、感情が乗ってうまくいかない(笑) 最初は優しく教えていたのに、途中から「なんでわからないの」「何度言ったらわかるの」と怒りがこみ上げ、いつの間にか喧嘩に発展している。 他人の子を教えるときはキレずに優しく教えられるのに。 それは子どもに対する期待などの感情があって、それに応えたいと思う子どもの気持ちと繋がっているからね。 でも、それは勉強の妨げになる。 学習っていうのは単純に言っちゃえば、新しい情報やパターンを記憶することで、「ここまでわかってて、ここが躓いている」というのを瞬時に把握して、「ここに注目」とか、「こうやってみて」と気付かせ導くこと。 そこに感情の交流は必要ないよね。 子育てって、なにかのパターンを教え込むことじゃないね。 親子で感情のやり取りを通して、お互い育ちあう、共に育っていくということが大事だと思うんだ。 さっき言ったような宿題を見てもらってたけど、いつの間にか親子げんかになった日常の一コマは勉強、テストの点数にはつながらないかもしれないけど、親子の成長、豊かな情緒を育て...

【No.1511】素の息子のときと、自閉症の息子のときの関わり方

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昨日のブログを読んだ方から「素の息子のときと、自閉症の息子のときで対応や育て方に違い、コツがあるのでしょうか?」という質問を受けました。 確かに見方について書いたけど、対応の仕方については書いてなかったよね。 いま、目の前にいる我が子はその子本来の素の姿。 じゃあ、そんなときは、どうやって関わったらいいのだろうか、と疑問に思うのは自然な流れ。 こうやってわからないところ、疑問に思ったところがあったらすぐに訊こうとする。 結構、これができない人が多いと思うな。 「こんな質問したら…」「それくらい自分で考えな」と言われそうだな…とか、これはあらゆる年代、場面で見られるよね。 でも、それはまだ自分主体で考えている段階で、本気じゃないといえる。 治す親御さんは“なりふり構わず”になれるね。 というか、全部投げ出して我が子の生きづらさをどうにかしたい、少しでも楽にしてあげたい、と思えるくらいにならないと、そしてそこに行動が伴わないと、その子が辿ろうとしている発達の流れを変えることはできないでしょう。 話を戻すと、素の部分が出ているとき、険しい表情や固い表情から一転して、柔和で自然な表情、しぐさ、身体の動きになったとき、本来、その年代、その子がやっているだろうなと思うことをやってほしいな。 たとえば、一緒にままごとをしたり、本の読み聞かせをしたり、ギュッとスキンシップをしたり、親子で出かけたり、自然な会話を楽しんだりね。 そういったときの子どもさんを見ていると、脳に神経のごちゃごちゃとか、葛藤が見られないんだ。 ニュートラルで、開いている状態。 そのときなら刺激も、関わりも受け入れられますってなっていることが多い。 だから自然な交流、親子の関わり合いをやってほしいな。 これはその子の心身の安定、発達に繋がるし、それ以上に親御さんのずっと抱えてきた「ああ、普通の子だったらあんなことをしてみたかったな」という想いを解放することにも繋がると思うんだ。 口にする人は少ないけど、親なら思う自然な気持ちだから、ないことにし続けるのは心身に良くないね。 一方で「自閉っぽいな」と感じるようなぴょんぴょん跳ねたり、独り言をいったり、せわしなく動き回ったり、関わりを拒絶すような状態だったりするときは、まさに閉ざされた状態だね。 頭の中がごちゃごちゃしていて、もう苦しくって、放っておいてくれよ、辛い...

【No.1510】概念の呪縛

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この前の発達相談で、お母さんが「自閉症じゃなくなるとき」って言ってたんだよね。 このフレーズを聞いた瞬間、「このお母さん、おうちは大丈夫」って思ったね。 一人の人間、我が子、〇〇くんがいて、その子には自閉症の部分、瞬間もあれば、同年代の子と同じ部分、普通の子になるときもある。 どんな子も、朝から晩まで自閉症ってことはないよね。 ふと、普通の子、素の自分に変える瞬間がある、というのを掴めているかどうかって、とても大きなことだと思う。 障害名、たとえば『自閉症』というのはただの概念。 ここからここまでは自閉症で、ここからは自閉症じゃない、って人為的に分けて、便宜上、共通した名前を付けているに過ぎない。 その名前自体にはなんの意味もないんだけど、その名前に振り回されている人がほとんどじゃないかな。 自閉があるから情緒学級とか、自閉症だから視覚支援しなきゃとか、自閉症だからこだわりがあるもんだとか、ね。 『自閉症』という言葉のほうに、現実の生活が引っ張られるなんておかしいと思わない? 「自閉症の子は二次障害になりやすい」というドクターに、「“自閉症の子が二次障害”はわかったんですけど、うちの子はどうなんですか?二次障害になるんですか?それは決定事項ですか?」って訊ける親御さんが増えてほしいよね。 時々、「この子は自閉症で」「この子に知的な遅れがあって」「重度の知的障害があって」という親御さんがいます。 もちろん、本人は聞いていない、聞こえていても言葉の内容、意味までは分からない、という前提なんだけど、どの子もわかっちゃうよね、確実に。 行動としてその場を離れたり、ひきこもったり。 葛藤の意味で邪気が出たり、気が淀んだり。 彼らから伝わってくるのは、「そんな風にかあさんも、レッテル張りをするんだね」という声。 丸ごと、全体として自分が見られているんじゃない哀しさだね。 あと話はずれるけど、「自閉症」とか、「知的障害」とか子どもの前で言うと、その子はその枠から抜け出せなくなることがあるから注意したほうがいいね。 「知的障害がある自分」がその子の認識となって、その範囲内で成長を収めようとするから。 「アプローチ、取り組み、本人の能力から考えて伸びが少ないな」と感じるおうちは、親御さんだったり、祖父母だったり、きょうだいだったりが、日ごろからその言葉を使っていることもある。 本人の...

【No.1509】子どもに触れるその手が冷たい

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時々ですが、このブログを読んでくれた人から感想をもらうことがあります。 うれしいですね。 感想をもらえると、やりとり、交流が生まれるからね。 それがまったくないと、僕が一人で言葉を並べているだけになっちゃうから。 「この文章で、この部分に注目されたんだ」 「ここをそう解釈、捉えたのか」 新しい気づきもあるし、同じ文章でも読み手によって意味の取り方が違ってくるからおもしろい。 思い浮かべる子、今、関わっている子、一人ひとり資質と体験が異なるから、それが出るんだと思うね。 このように言葉とは曖昧なものだし、伝えたいことがピタッとその通りに伝わることはないと私は思っています、数字以外はね。 このブログだって、あれこれ書いてますが、正確に伝えようとして言葉を並べていけばいくほど、真実から遠ざかっていく感じがあります。 きっと伝わらないんだろうな、でも伝えたいな、という想いで綴ってる。 言葉は道具だから、使い方、使い手によって機能が変わってくるのは当然です。 また言葉はヒトの歴史でいえば、ごく最近から使いだしたもの。 生理現象があって、行動があって、最後が言葉。 実態の順番、信頼度の順番、正確性の順番だね。 つまり、子どものことを観察するにも、この順番が大事ってこと。 生理現象にはウソがないけど、言葉にはウソがある。 行動はその中間。 育てる順番も「言葉から育てよう」とするのは間違いだね。 まずは生理現象から始める。 疲れを感じられるようにする(生理現象)。 疲れを感じたら休むようにする(行動)。 疲れを感じて休みたくなったら「疲れた」「休みたい」と言えるようにする(言葉)。 発達相談のあと、当日、観察できたその子の発達状態や課題、発達援助のポイントと仕方をまとめた報告書を作成して、各家庭にお渡ししています。 この報告書は文章で作成したものだけど、ただ私がアセスメントして、こう育てましょう、というのを文字で書いたんじゃ、ほとんど意味が伝わらないし、活用できないでしょう。 だけど、当日、私がするアセスメントや子どもさんとの関わりを傍で見てもらってる。 気が付いたことがあれば、その場で私がぼそぼそ言って、ああでもないこうでもないと関わり方を変えていく。 こうやって私の言葉には表せない発達援助が、私が汗をかいたり、テンションが上がったり、悩んで困ったりするのを、ああだこうだと手を変...

【No.1508】身体の声、聞けてますか?

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僕は若いときから『アセスメント』というのが嫌いだったね。 なんだか「この範囲だけを見なさい」「この点を中心にみなさい」と言われているようで窮屈だったし、こんな切り貼りしたようなもんで、その人全体がわかるかいな、という反発心もあった。 管理職から「施設で使える実践的なアセスメントを作ってよ」と言われて作ったこともあったけど、納得できるものはとうとう作れなかったね。 まだ使われるのかな。 ちらっと「まだ大久保さんが作ったアセスメントシート、使われてますよ」って聞いたけど。 アセスメントを作るように命じられた背景は、教育大とか、福祉系の専門学校とか、そういう関係のある学校を出た人が入社しなくなって、「職安で募集があったから」というような職員が増えたことだったね。 結局、日々、利用者さんを観察し、評価して支援を組み立てよう、といっても、まずどこを見たらいいのか全然わからないような職員も、一応、「ここさえ見れば、ひと先ず大丈夫」となれるためのもの。 必要な評価項目を挙げていったらどんどん多くなっちゃうし、それじゃあ、初めて障害者と接しますみたいな職員は「こんなにあるなら、ああヤメタ」と使わなくなるから、最低限に項目を絞って…。 特別支援の世界にはたくさんの種類の「アセスメント」があるけど、どれも同じじゃないかって思うよ。 どこかの教授、医師、専門家が中心となって、アセスメントを作る。 そのプロセスの中で、これは重要だ、これはなくてもよいだろう、これは残しておくべきか、というのを当事者“ではない”誰かと誰かが話しあって、「こんな部分を観察しましょう」「それによって、その人を評価しましょう」とやる。 これって利益が大きいのは支援者側だよね。 なんでこんな昔話、アセスメントの話をしたかといえば、子どもと支援者のズレ、子どもと親御さんのズレが大きくなっていると感じるから。 昔から「この子は、こうなんです」と言い切るような支援者、親御さんはいたけど、いまはそのズレが単なるズレというよりも、独りよがりの見解に見えちゃうんだ、申し訳ないけどね。 その背景、理由を今日は詳しく述べないけど、アセスメントする側が、主に大人のほうが自分の身体の声を聞けてないことがあると思うんだ。 「(この子に)こんなんしたら気持ちよく感じるのですね」 「こうしたら発達のヌケが埋まって、育っていくんですね」 という...

【No.1507】場所によって表出の仕方が違う

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「保育園や学校では落ち着いているけど、家に帰ると暴れる」って話はよく聞きますね。 反対の「保育園や学校で暴れて、家に帰ると落ち着く」というのはまあ、学校で暴れる子は家でも手に負えないというケースが一般的だからね、比べると少ないけどあることにはあります。 その昔は、「自閉症は環境の変化が苦手だから」と説明されてて、家から学校、学校から家といった変化は本人にとって大きなストレスなんだろう、と言われていました。 で、ちょっと時代が進むと、今度は感覚過敏がメインになることが多くなって、「学校は刺激が多いから」「掲示物が多いのかもしれない」「蛍光灯がー」「子どもの声がー」「机を動かす音がー」となった。 「じゃあ、家よりも刺激が多い学校で落ち着いて、家に帰って暴れるのはどうして?」という疑問には、「学校で我慢した分、家で爆発するんだろう」と解釈する人が多かったですね。 あとは「学校は支援が充実していて刺激が制限、整理されているから」という家庭ディスりをする場合もあった。 今はどんな捉え方、解釈がされることが多いのだろう。 その環境に原因があって暴れる場合と、ストレスを発散できる場所だから暴れる場合と、どっちもあるんじゃないかな。 その環境の問題には、苦手な刺激がある、過剰な刺激がある、嫌な人がいる、嫌な記憶がある、嫌な活動がある、というのが考えられる。 あとはその場が楽しくて、その環境が嬉しすぎて「暴れちゃう」という場合もあるね。 興奮もストレスになっちゃうし、その興奮、感情の高ぶりをうまく制御できない、それは神経伝達物質とか、自律神経とかの問題として生じる話です。 あと主に家に帰ると暴れる話なんだけど、その理由はやっぱり外で我慢してきた分を一気に吐き出しているという面が強いと思うな。 施設で働いていたとき、結構、こんな子ども達いたもんね。 寮の玄関で靴を履き替えたら自分の居室に直行して、布団被ってワンワン泣いたり、押し入れの中にこもって大きな声を出したり。 寮に帰ってきた途端、自傷を始める子も何人もいたね。 きっと学校で相当我慢してきたんだろう、嫌なことがあったんだろう、と思ってた。 それは専門家、支援者の自分というよりも、素人、人間としての私が感じたことだけど。 そういう子たちは5分とか、10分とか泣いたら、自分で出てきてスケジュールを進めてました。 切り替えの時間の長さか...

【No.1506】対処行動は治ったら、どう変化していくか

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症状に見える行動を“対処”として捉えてみましょう、というのが前回の話でした。 で今日は、その“対処”として捉えた行動がどのように変化していくか、どうなったら理想的な形か、という部分について話をしたいと思います。 結論から先に言っちゃえば、対処行動自体は消えていきます。 そしてその対処行動を本人が作り出すためにいろんな能力を使ったと思うんだけど、それらの能力が日常生活の中で、生きていく中で有益なパターンとして発揮されるようになります。 たとえば、対処行動としての多動が「良く働き、良く遊ぶ」として使われるようになったり、頭でっかちでいろいろ考えを巡らせて対処していたのが治ったらクリエイティブな方面へと能力が発揮されたり。 他害をしていた子が適切な拒否を身に付けることで、今度は筋肉活動としてその力を使ったり、攻撃性を膠着状態を突破する、組織を改革する、といった方面へ活かせるようになったり。 物事へのこだわりが治ったら、几帳面な仕事、職人気質な作業や「正しさへのこだわり」から警察官や裁判官を志すことになったり。 同じ自傷でも、同じこだわりでも、同じ感覚過敏でも、その対処の仕方、様相は一人ひとり異なっていますね。 そこにはその人の資質が現れているんだと思います。 資質が苦しみ、生きづらさから逃れるための対処として発揮されている。 だけど、その生きづらさが治れば、より適切で豊かな対処の方法が見つかれば、そちらに使われていた資質が別の方面へと使われるようになります。 さらに生きづらさに対する対処行動を行っていたとしても、そこには絶え間ない「行動→刺激→調整→行動」といった学習、脳や神経発達への刺激が繰り返されていますので、単に「対処してました」ではなく、豊かな発達と成長があるんです。 だから、これは自閉症の症状だ、知的障害だからやる特異的な行動なんだ、で、「じゃあ、その症状とやらを抑えてしまおう」とやるのがとってもまずいんですよ。 その人の資質まで抑え込んじゃうことにつながるからね。 ギョーカイでは「二次障害」なんていわれるけど、私は医原病、支援者が支援することで作り出す病じゃないかって思ってる。 想像してみてほしいんだけど、自分の資質、能力が発揮できないことって辛いし、それは伸びやかさを奪うことだと思うんだ。 言い換えれば、内なる自由を奪う行為。 心に自由を奪われた人は、みんな...

【No.1505】それは症状か、対処行動か

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昨日の続きです。 発達に遅れや凸凹がある子ども達って、年齢にそぐわなかったり、特異的だったりする行動をするよね。 パッと見、理解することができなくて、周囲はそういった行動を「症状」の一つとして捉える。 で、それは親御さんだけじゃなくて、先生も、支援者も、医師や専門家も同じ。 乱暴な言い方かもしれないけど、「わからないものは、全部、症状に入れてしまえ」という風にも私からは見える。 「アセスメントが大事」というけど、国から予算を貰ってそういった研究はされているけれども、そもそもの見立て、見方がおかしいと思うな。 特異的な行動、ちょっと変わった行動を見たら、それを「症状」のボックスに入れるんじゃなくて、まずは「対処」のボックスに入れてみるのが大事じゃないかな。 もちろん、純粋な症状というのもあるけど、その場合も、「その症状体に対してこの子はどんな対処行動をしてきたのかな」と確認してみる。 「症状」じゃなくて、「対処(行動)」と捉える利点はいくつかあります。 大きなところを上げると、応援、後押ししたくなるよね。 「症状」だったら諦めるとか、受け入れるとか、手を出すところじゃないって感じがするけど、「これはこの子の対処行動なんだ」と思えると、どうにか力になりたい、なれるんじゃないかって思いが湧いてくる。 だって、対処するっていうのは、よりよい未来のための行動だから。 もちろん、その対処のやり方がうまくないなぁと感じることはあるけど、本人の良くなりたい気持ち、意向は変わらないもん。 あとは、その対処行動を観察することで、その子の能力や心身の状態を掴むことができる。 その対処行動に、どのくらいの工夫がされているのか。 その対処行動に至るまでに、どんな試行錯誤、経緯、周囲や環境と折り合いをつけてきたいのか。 そのあたりから、その子の持つ力、使ってきた力を知ることができるね。 対処行動がシンプルで、乱雑なものは、能力や心身の状態があまりよくないと捉えることができるし、反対に複雑で、周囲と折り合いがつく、つきそうなものは、それだけ能力や状態が良いって捉えることができる。 こういった現場のリアルなアセスメント、実践的なアセスメントって研究されないよね(笑) 研究者は曖昧な情報を捉えるのが苦手な人が多いから。 そしてこれも重要な利点なんだけど、みんなが参加できるようになるよね。 子ども達が...

【No.1504】「自傷あり」と引き継ぎ資料には書かれているけど

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8日の講演会の中で、ちらっと話したけど、頭のどこを叩くかで本人の受け取り方、訴えをイメージすることって大事だと思っています。 おでこの辺りを叩くのなら、「情報過多で頭が混乱しているのかな」「フラッシュバックが起きているかもしれない」と想像してみる。 左側頭部の辺りなら「言いたいことが言い表せず、言いたいことが伝わらず、辛い思いをしているのかも」「ミラーニューロンと関係する場所だから、他人との関係で疲弊や失敗を感じているのかも」と。 右側頭部の辺りなら「なにを言われているのかわからなくて混乱しているのかな」「気持ちの高ぶり、乱れが自分ではどうにもできず、困っているのかもしれない」と。 文字で表しちゃえば、それこそ、引継ぎの資料なんかだと、「頭を叩く自傷あり」で終わっちゃうんだけど、それじゃあ、その人、本人の様子やその行動の背景がわからないよね。 一番の問題はどう支援、援助したらいいか、どう改善したらいいかが浮かんでこないこと。 「自傷あり」に対する支援を考えれば、出てくるのは「自傷をさせない」しかなくて、でそうなると、自傷の兆候が見られたらパッと止めましょう、周りに影響を及ぼさないように別室に移動させましょう、となり、どんどん問題の本質から離れてしまいますね。 なぜ、自傷をするのだろうか、という視点がなければ、そこから援助の計画を立てなければ、いつまで経っても“後追い”しかできないでしょう。 これではいつまであっても改善は見られず、支援者のほうが先にお手上げになって、結局、「自閉症だからね」「重度の知的障害があるからね」と自分たちで納得感を出して、「薬漬けもやむなし」にしてしまうのです。 支援者の「打つ手なし」は、支援者側のアイディア不足もあるけど、そもそも出発点のアセスメント、その人のことを、その人の行動を理解しようとする時点で間違っちゃっていることが多いと思います。 自閉症や知的障害を持っている人たちの中には、自分の内面を捉えること、それを表現し、他者に伝えることが難しい人も多くいますよね。 本人からの明確な訴えがないと、周囲が勝手な解釈をしてしまう危険性が常にあると思っています。 もちろん、勝手な解釈がゼロになることはないと思いますが、彼らの行動に「どんな理由があるのだろうか」「どんな意味があるのだろうか」「どんな訴えや気持ちが表れているのだろうか」と考え、知ろ...

【No.1503】学習に対するモチベーション問題

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「できるようになるから、しろ」というような促し方、学習のさせ方って難しいことがあるよね、自閉っ子たちの場合。 ハイハイを抜かしたから、「もう一度、ハイハイをやってみよう」というのは記憶にはないかもしれないけど、やったことがあるからわかりやすい。 でも、「原始反射を統合したいから、このヒトデの動きをしてみよう」とか、「将来の自立のために、お風呂洗いを」とか、「手先の不器用さを改善するためにねじ回しを」とかは難しい。 まあ、やろうとすれば、能力的にはできるかもしれないけどね。 「これは訓練です」といって、ある程度、強制的な力が働けばできることもある。 だけど、多くは「やらされればやるけど、自分からはやらない」「やるのはやるけど、なかなか身につくところまでいかない」。 じゃあ、どうしてそうなっちゃうかといえば、想像力が必要になってくるから、だね。 できるようになった自分の姿、未来の自分、それによって変わる環境や選択肢を想像できると、やってみようかと意欲がわいてくる。 ここが自閉っ子たち、知的障害を持つ子たちには難しい場合がある。 定型発達の子ども達は、ある程度、年齢が上がってくると、幼児さんでも未来を想像して、「自分もそうなりたい」という想いを持つことができるから、「きっとできるようになるから、やってみようよ」に乗ってくる。 たとえば、脳梗塞の人だったら、もともとできていた自分がわかっているから、現状を「残念だなぁ」と思い、「もう一度、できるように」と一生懸命頑張る。 ところが初めから全然できない人に、「やれるようになるから、やれ」といっても、やらないよね。 自閉っ子は不器用な面もあるし、想像する力が弱い面もある。 小さいときから、定型発達児のような「できない」じゃなくて、「全然歯が立たない」「失敗ばかり」という体験を重ねまくってるんだからね。 学習のさせ方、促し方には工夫が必要。 課題のレベルからいって、この子の能力ならできるだろう、身につくだろう、というような目標設定がされる。 だけど、上記のように、現実の場に応用できなかったり、いつまで経っても身につかなかったりすることがあるよね。 そうすると、先生、支援者というのは、課題のレベルを下げる。 でも実際は、課題のレベルが高いんじゃなくて、できるってどういうこと?できた自分ってどんな感じ?どんないいことがあるの?何に繋が...

【No.1502】行動療法に対する3つのツッコみ

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行動療法っていうのがある。 簡単に言えば、学習によって行動を変える、または新しい行動を覚える、身につける。 望ましい行動をしたらご褒美をあげて、やめてほしい行動をしたら罰を与えたりするのは、その手段の部分。 細かいテクニックはいろいろあるけど、結局、学習させるってこと。 支援、療育の世界では今もなお、広く行われている療法です。 で、ツッコみどころとしては大きく3つあると思っています。 望ましい行動の“望ましい”って誰が決めるもの? 本人にとっては意味があるし、必要があるからその行動をしているんだよね。 それは本人にとっての「望ましい行動」 だけど、周囲や他者にとっては望ましくないから、またはその場に即した望ましい行動ができないから、「じゃあ、いっちょ教えましょうか」となる。 ハッタツの世界で行われている行動療法の基本は本人が学びたいもの、身に付けたいものじゃなくて、周囲が、他人が身に付けさせたいもの。 もちろん、その行動を身に付けることによって、周囲との関係が良好になったり、活動の幅ができることもあるでしょうが、「そんなことを一生懸命教えられても、はた迷惑」ってことも多いと感じる。 行動療法をしても、「なかなか行動が身につかない」「修正できない」と親御さんや支援者が嘆いている姿を見るたびに、「そりゃあ、そもそものモチベーションがないから」と思ってしまう。 次のツッコみは、発達障害特有の問題と通じています。 脳は階層になっていて、進化の過程でいう「魚類の脳」「爬虫類の脳」の上に「哺乳類の脳」が被さり、表層の部分に「人間の脳」があって覆われている。 発達障害の人は土台となる脳の階層に遅れやヌケがあって、その上に乗っかっている脳の発達に問題が生じている場合があります。 また脳神経同士をつなげるネットワークに不具合が生じて、つながるべきところがつながっていない、つながってほしいところがつながらず間が跳んでしまっているという場合もあります。 くどくど説明したらわかりづらくなりますが、一言でいえば神経ネットワークの「途中がない、抜けている」ってこと。 つまり、発達障害特有の問題とは途中の神経発達が抜けちゃっているから、人間の脳、大脳皮質で理解するしかないってことが多くあるんですね。 なんだか体感ではわからないけど、頭で、知識としてわかっている状態。 その場の空気を読むことはでき...