【No.1404】「縄文人を育てる」という視点
今年度は支援級を選択したご家族が多かったような印象です。 毎年、というか、一年間を通して「普通級にするか、支援級にするか」の相談があります。 数年前までは「なにがなんでも普通級に」という親御さんも多かったですし、私もその方向で応援させていただくことが多かった。 でも、コロナ騒動を経て、うちの上の子も小学生から中学生になり、普通級にこだわる必要はないんじゃないかなという気持ちが大きくなりました。 実際、小中と支援級だった子が、受験して私立の高校に進学したり、不登校や学校にいかなかった子も高卒認定を取って大学に進学したり、通信制の高校で学び、就職したり。 そんな姿を見てきたこともあったかもしれません。 だからといって、「支援級のレベルが上がった」「充実した特別支援教育が受けられるようになった」とは思っていません。 一部の熱心で、自立を目指した教育をしている先生もいるのはわかりますが、それは10年前だって一緒です。 ほとんどは構造化するか、同じプリントするか、「個に合わせた教育」という名のアリバイ的な授業をやっているか。 上記のような私立に進学、高卒認定から大学進学などは、学校の力ではなく、その家の親御さんのサポートがあったから。 学校に任せっぱなしでうまくいくことなんて、普通級に行ってたってあり得ないのです。 結局は家庭次第で、強いて言えば10年前、20年前よりも選択肢が増えたということなのでしょう。 でも決して、それはギョーカイの啓発が功をなしたからではなくて、少子化だからでしょう。 子ども、生徒を獲得するために、門戸が広がったという感じです。 この国の大人は子どもがお金を生むお客さんにならない限り、関心を向けないのですから。 この春は卒業式と入学式に参加しましたが、相変わらずマスクをつけた先生ばかり。 その先生に、一人の人間としてのなにかはないのでしょうか。 そうやって他人からの評価でしか自分の存在が明確にならないのなら、自立した大人とは言えないでしょう。 自分たちの10年後、20年後の姿が10円くらいの布切れ一つ自らの意思で取れないのなら、どうして大人になることを、社会に飛び立つことを楽しみに過ごすことができるのでしょうか。 「普通級が良い」のではなく、普通級も支援級も大差ない、というのが現実に近いと私は思います。 学校で授業を受けている分、家でやることが減るくら