発達は、自然科学であり、ヒトの、動物の自然な営み

保育園一年目は、あらゆる病気を貰ってきます。
春夏秋冬、それぞれの季節で流行するもの、したものは、すべてもらい病気になるわけです。
年がら年中、鼻水を垂らしています。
ときに、発熱しながら、体内に入ってきた初めてのモノと対決する。
そうやって、一年が経ち、二年が経つと、ほとんど症状が出ない身体になっていきます。
子どもが貰ってくる病気のほとんどは、「経過観察」と「対処療法」と説明されるのです。


私自身は、もう10年以上、病院にかかることはありません。
ほとんど風邪などひきませんし、「なんかくすぶってるな」と感じれば、手足を温めたり、ランニングの距離を調整→汗の調整をして治します。
もう30年以上、生きているわけですから、自分でどうすれば、治るか、自然治癒力が発揮できるかわかるわけです。
結局、病院に行っても、直接作用するような特効薬がもらえるわけではありません。


喉が痛ければ、「喉が痛いです」という。
そうしたら、ドクターが喉を見て、「ああ、喉が腫れていますね」という。
頭がボーとすれば、体温を測り、その値を伝える。
そうしたら、ドクターが「熱が出てますね。風邪でしょう」という。
これが一般的な内科の診察。
症状に合わせた薬が出て、とりあえず抗生物質が処方される。


内科のドクターは、風邪に対する特効薬はなく、対処療法しかないこと前提で診察にあたります。
患者の方も、ドクターが直接治してくれるわけではないけれども、一応、通院する。
それは、他の病気だと困るから。
「ああ、普通の風邪ね」と安心し、あとはゆっくり養生するために通院する。


こうしてみると、風邪を発達障害に変えても、意味は通ります。
「こんな症状があるんです」といえば、「じゃあ、こんな薬があるよ」という。
「言葉の遅れがあって、目が合わなくて…」といえば、「じゃあ、発達障害かもね。検査してみよう」という。
そして診断名が出て、診断書が記入され、「あとは福祉へ、療育へ」となる。
ここでも、ドクターが直接治すわけでもないし、神経発達を促してくれるわけでもない。


発達障害専門の医師の多くは、「治らない」という。
それはそうなのかもしれません。
発達障害が治ってから、わざわざ通院する人はほとんどいないでしょうから。
どちらかといえば、診断名が欲しいときと、薬が欲しいとき、に通院するもの。
それ以降の話は、各家庭、個人の出来事。


私は、医療をディスっているわけではありません。
医療だけが特別で、崇高なものではなく、医療だって限界があるといいたいのです。
医療の限界とは、診断と処方、そこまで。
それ以降は、どう頑張っても、各個人の自然治癒力、何を学び、成長するか、どのような選択をし、行動するか、にかかっている。


私達は、病気になれば、病院に行きます。
でも、ほとんどの病気は、医師が直接治してくれるわけではありません。
手術をするのは、医師かもしれないが、その傷口を元に戻し、身体を回復させるのは、本人の自然治癒力であり、患者自身の行動と選択にかかっています。
病院に行けば、100%病気や傷が治るわけではない。
そういったことはわかって、患者だって病院にかかる。


だから、発達障害の専門医とはいえ、同じこと。
治してくれるのは、医師ではなく、患者自身。
本人が何を選択し、どう行動するかにかかっています。
薬を処方してもらうことによって、症状は抑えられるかもしれないが、一時的にラクになるかもしれないが、結局のところ、神経発達障害の“神経”を育て、整えていかなければ、根本的な解決には至らない。


私達は、医療や専門家に頼りたい気持ちになることがあります。
私だって、子どもの調子が悪くなれば、「ただの風邪だろう」「ゆっくり休めば治るだろう」と思うものの、やっぱり心配になれば、医療を頼る。
そこで、「ただの風邪ですね」「二、三日安静にすれば治るでしょう」と言われれば、安心できる。
なので、発達障害の専門医にも、こういった安心できる方向性で話をしてもらいたいと願うのです。


障害名(仮)だって、本当は最初に診断した医師から伝えてもらえれば、どれだけ多くの親御さん達が救われるかと思います。
しかし、現実は、障害名(仮)の話をされないことが多い。
そればかりか、1歳、2歳、3歳というような子ども達を目の前にしても、「治らないから」「この子は、一生福祉」「支援を受けて生きていくのが良い」と言ってしまう。
医療に限界があるからこそ、誠意をもって、親御さんに、そして子どもにも向き合ってほしい、と私は思います。


風邪と同じように、本人の自然治癒力が治すのです。
発達に関しても同じこと。
本人が求める刺激、環境、学びを存分にやり切ることが、神経発達を豊かに育てます。
こういった前向きな話がもっと溢れるようになってもらいたい。


一部の親御さんが、診断名欲しさに、できるだけ重く、重症度を強調して書いてもらいたく、医療にすり寄っていくことがあります。
そうすれば、公的な支援が多く、長くもらえるから。
だからこそ、待合室でも聞こえるくらいに、「重く書いときましたから、お母さん」なんて言葉が聴こえてくる。
だからこそ、そんなつもりがない親御さんにまで、「重く書きましょうか?」なんて言葉が投げかけられる。
「重いことが良い」「軽くならないのが良い」などという曲がった価値観が、「治る」を真剣に考えない専門医療へと留めている要因にもなっていると感じます。


医療に限界があるように、専門家にも、支援者にも、エビデンスがあるアプローチにも、限界があります。
ですから、そういった者たちを絶対視しないこと。
あくまで、治していくのは、本人の自然治癒力であり、発達する力。
上手に使わなければ、選択できなければ、主体性がどんどん奪われていくだけ。
必要なときに頼り、それ以外はちゃんと距離を取る、ときにスパッと切り捨てる。


自然治癒力、発達する力は、主体性がないと発揮されないもの。
専門家を適度に諦める、期待しない姿勢が肝要です。
医療を、専門家を、宗教にしてはなりません。
発達は、自然科学であり、ヒトの、動物の自然な営み。

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