2018年7月18日水曜日

私達支援者は主観から逃れられることはできない

激しい行動障害を持っていた子が、支援が入ることによって、その行動が落ち着くことがある。
介入した支援者は、その姿を見て、良かったと思う。
自傷にしろ、他害にしろ、どんな行動障害も、本人の姿からは何とも言えない悲しさが漂い、そして見ている方もどんどん辛くなっていく。


しかし、どんな行動障害だとしても、その行動が出ないように支援することが、本当に本人が望んでいるかはわからない。
たとえ痛ましい自傷行為だったとしても、100%、止めることが善であるとは言い切れない。
何故なら、その激しい行動が障害だと見るのも、止めた方が良いと思うのも、支援者の主観だから。


施設で働いていたとき、私達支援者は「主観から逃れられることができない」と言っていました。
行動障害への対処だけではなく、コミュニケーションの幅を広げたい、身の周りのことが自分でできるようになってほしい、という支援においても、すべて支援者の主観になります。
知的障害が大変重い方も多く、測定不能という方も少なくありませんでした。
ですから、本人の意思を確認する方法は限られていましたし、ほとんど確認することができない方もいました。
そういった方達と生活していましたので、どこまでいっても主観から逃れられないという想いがあったのだと思います。


エビデンス(科学的根拠)というのは、客観なのかもしれません。
でも、エビデンスのある支援、方略と言っても、100%、どの人にも効果が得られるというものは存在しません。
ということは、エビデンスがあると言われている方略の中から選んだ行為自体、支援する側の主観となります。


我が子に、私が担当している子に、「エビデンスのある方略をやっています」と、あたかも自分は正しい行動をし、子どものことを一番に考えていると言いたげな人がいます。
しかし、そうとは言い切れません。
もしかしたら、その子は望んでいないかもしれない、満足していないかもしれない。
子どもが成長したように見えても、本人は息苦しさを感じているかもしれない。


支援者、もちろん親御さんもですが、「これは自分の主観」という想いを忘れた瞬間、あらぬ方向へと進んでしまう危険性があると感じます。
主観ということが抜けてしまうと、自分の行為が100%になり、子どもも同じように思っている、子どもが望んでいると錯覚してしまいます。
錯覚の先に、「子どもの主体を奪う」という恐ろしさがあるのです。


施設の中には、可哀想が充満しています。
「家で暮らせなくて可哀想」
「行動障害を持っていて可哀想」
「自由と選択と自立がなくて可哀想」
そんな可哀想の空気の中で過ごしていると、いつの間にか自分の主観という意識が薄くなり、この子が望んでいると思うようになります。


「自分は正しいことをしている」「この子が望んでいることをしている」と思うのは、支援者の傲慢で一方的な想い。
本人の主観がわからない、見えないからといって、本人以外の他人が勝手に解釈してはなりませんし、自分の主観で解釈しているんだという意識を失ってはなりません。
どんなに支援を頑張ったとしても、本人の主観が満足しない限り、100%の支援、療育などはないのです。


昔、「主観から逃れられることはできない」と仲間たちによく言っていたのを思い出したのは、ある成人の方と出会ったからです。
彼は、かつて多動児と呼ばれていました。
でも、私が会った若者は、その面影が感じられないくらい動き、躍動感がなかった。
ボーと私の顔を見て、頷くばかりだった。


多動児と言われていた方達が、部屋の片隅で静かにしている姿を20代の私もたくさん見てきました。
その当時、一緒に生活していた方達と先ほどの若者の姿が重なったのでしょう。
そして、こんな物語が見えたのです。
「多動で大変だから、動きまわるのを抑えるのが良い」
これは周りの主観だったはずなのに、いつの間にか本人の主観、望みのようにされてしまった。


多動児が多動児らしく発達し、成長し、大人になっていく。
それが資質を磨き、活かしていくことではないかと思います。
誰か「この支援は私達の主観である」と気づく人がいなかったのか…。
支援者の主観が、本人の主観を浸食し、主体性を犯す。


多動児の面影を消し去るくらいの薬の量ってどれくらいだろう、どれくらい飲んできたのだろう。
「多動が落ち着いて良かった」という声が聞こえてこない若者の姿を前にし、私はただただ切なさに溢れ、溺れそうになっていたのでした。

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