子どもの側から診断名を見る

現在のところ、自閉症の診断は風邪の診断に近いといえます。
脳波やレントゲン、血液、遺伝子などの数値化されるデータから診るのではなく、風邪のように症状を診て、その種類、重さ、組み合わせから診断されています。
ということは、画像や数値から判断する病気や障害よりも、人が入り込む余地があるのです。


「人が入り込む余地がある」=「医師が恣意的に診断している」と言いたいわけではありません。
診断には、様々な要素が混じり合っています。
診断する側の“人”のみではなく、そのときの本人の心身の状態であったり、家族からの情報、見たてだったりが存在します。
症状だって、強く出るときもあれば、ほとんど確認できないときもあります。
このようなことが考えられるからこそ、事象を反対側から見ることも大事だと私は思います。


私が関わっている方達の多くは、診断を受けています。
医療機関で正式な診断を受けているのですから、その診断自体をどうのこうのいうつもりはありません。
ですが、私は診断名をそのまま鵜呑みにし、前提として支援、援助を進めていかないように心掛けています。
必ず、疑うのではなく、反対側から見るようにします。
例えば、自閉症という診断を受けた方でしたら、「自閉症ではない」というのを否定する作業を私の頭の中で行います。
「私は自閉症である」は、「私は自閉症ではない、ということはない」とイコールになります。


どうして、こんなややこしいことをしているのかと言いますと、自閉症を前提として出発してしまうと、すべての言動が自閉症の特性に見えてしまうからです。
例えば、こだわり一つとっても、それが変化に対応できない、不安や恐怖を感じるからかもしれませんし、単にその対象が好きだから、それ以外を知らないから、たまたま今、マイブームだからかもしれません。
定型発達の子ども達だって、たくさんこだわりは持っていますし、「やめなさい」と言われても止めないことも多々あります。
症状の強度や頻度にかかわる部分でも、障害からくるものなのか、幼さや脳が発達途中、経験不足、練習不足だから自制できないのか、同世代の子と比べて大きな差があるのか、など考えるべきことがあります。


走り回っている子を見て、それが「多動」だとするのなら、「いや、同世代の子と同じような活発さだ」という見立てを否定する作業が必要です。
「同世代の子と同じような活発さ」が否定できないと、多動に見えるし、子どもらしさにも見える、では支援が定まりません。
また「多動だ」とする一方的な見方では、もし子どもらしさ故の活発さだったときに、それを制止したり、「静かに過ごしましょう」と指導したり、動きまわれない環境に変えたりしてしまえば、同世代の子ども達と同じような発散し、発達する機会が失われることにつながりかねません。


咳が出ているので、ただの風邪だろうと思っていたら、肺に重大な病気があった。
症状のみで判断する風邪の場合は、その他の病気が隠れているという点を否定する作業が必要だと思います。
もちろん、この考え方がそのまま当てはまるとは思いませんが、障害名から子どもを見るだけではなく、子ども側から診断名を見る必要もあるのだと思います。
これはひと様の人生に関わらせてもらう仕事をしている者として大事なこと。
「もし私が見誤ってしまい、別の視点から援助してしまえば、その子の可能性を潰しかねない」という恐怖感を常に持っています。
ですから、支援者という立場の心構えとして、診断名の、症状、特性の否定の否定を行っています。


最後にちょっと話が逸れますが、関連したお話。
「支援がないと二次障害になる」と真実のようによく言われますが、この場合は、「支援があると、二次障害にならない」ということが証明されないといけませんし、「支援がなくて二次障害にならない」ということが否定されないといけません。
私の周りにも、全然公的な支援は受けていなくて、二次障害になっていないし、自立して働いている人もいます。
と言いますか、自閉症の特性みたいに二次障害が語られますが、どこの診断基準を見ても二次障害が自閉症の特性であり、診断の必須条件とはなっていません。
長く支援を受けてきた人の中にも、二次障害になっていない人はいますが、それがすべて支援のおかげと言うのなら、親御さんの子育ての影響、学校の先生の影響、そもそも二次障害を起こすような人ではなかった、というのをすべて否定する必要もあります。


まあ、最後と言いながらクドクドと書いてしまいましたが、オチは「話し半分に聞きましょう」です。
ときに支援者は一方からの視点、事実しか言っていないことがあるからです。
診断する人も、支援する人も、そして本人も生きている人。
生きている人間は、留まることなく、常に変化し、発達するものですから、反対側に立って見ることで、その人をより立体的に捉えることが重要だと思います。

コメント

  1. 大久保さんのブログの内容は、、主には知的障害のないタイプの児(人)についての内容と捉えた方が良いでしょうか?

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    1. ブログ全体としましては、知的障害のあるなしは意識しておらず、自閉症、発達障害の方たちと接する中で考えたこと、気づいたことを書いています。
      私が実際に接している方たちも、知的障害の重い方もいれば、知的障害がなく、大学に行かれている方もいます。
      また私個人の考え方としても、知的障害のあるなしで支援や援助の中核、方向性が違うということは思っていません。
      ですから、知的障害のあるなしに関わらず、自閉症、発達障害の方たち、そして関わる親御さんや支援者の方たちに向けて書いております。
      もちろん、ご自身や接している方に合わない内容や、部分的には知的障害のある人に向けて、ない人に向けて書いたものもあります。

      今回のブログの内容でいえば、知的障害という診断名を子どもの側から見ると、未学習や経験不足、学習の準備が整っていない、発達のヌケの存在等の可能性を否定する必要があります。
      別の言い方をすれば、知的障害と言われているけれども、「これらの可能性もあるかも」と思えると、違った援助の仕方や子ども自身の可能性に気づけることもあるのでは、と思います。

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    2. なるほど。。
      いつもブログを拝見していて、大久保さんの考え方には大変共感しております。私は介護福祉士です。子育てでもう数年仕事を離れていますが、、介護の方ではもう何年も前から利用者本人の自立は置き去りで(介護の世界での自立は、障害者の自立支援とは内容が違うとは思いますが)、家族の都合が殆どです。そして家族に従う介護スタッフ。。。
      障害者福祉の方でも、おなじ現象が起こって来ていると感じています。

      私は3人の子を持つ母で、真ん中の子が知的障害です。知的障害の我が子と接していく中で、やはり知的能力の壁というものを、大変大きく感じてしまうことが多く、、知的のない発達障害の子を見ていると、どうしてあの子を支援の枠の中に入れてしまうのか、、。あの子なら、日々の遊びや関わりの中で治していけるのに、、、と思ってしまうことが多々。。

      知的障害の壁…というのは、とてつもなく大きいと感じ、、、大久保さんのブログを読んでいて、内容にとても共感できるだけに、、我が子にあてはめて考えると、辛くなったり、、、です。

      まとまりのない内容すみません。お返事ありがとうございました。





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    3. 私がこの世界に入ったきっかけは知的障害を持つ自閉症の子ども達であり、キャリアの始まり、土台は、重い知的障害を持った子ども達、強度行動障害を持った子ども達でした。
      ですから、コメントに頂いた『知的のない発達障害の子を見ていると、どうしてあの子を支援の枠に入れてしまうのか、、。あの子なら、日々の遊びや関わりの中で治していけるのに、、、と思ってしまうことが多々。』という部分に、私はとても共感致します。

      今、依頼がある方達の多くは、知的障害を持たない方、または軽度の方と就学前、小学生年代の幼い子ども達です。
      しかし、このような方達の援助や助言をさせて頂くときも、私の頭の中には常に施設で寝食を共にした子ども達の姿があります。

      彼らの中には、その日、何もなく安全に暮らせるだけで有難く思える子もいました。
      自分の行動の意味、気持ちや想い、伝えたいことを、すべて周囲の人間の解釈に頼らざるを得ない子もいました。
      十分な学ぶ機会も、自分の生活、人生を決める選択肢も持てない子も…。

      こういった姿が目に焼き付いている私は、特に知的障害を持たない子ども達には、どんどん治ってもらい、そして得られた学びの機会、自分に与えられた資質を存分に活かし、より良い人生を歩んでもらいたいと思っています。
      もちろん、知的障害を持つ子ども達に対しても同じ気持ちでありますし、治しやすいところから治していくこと、症状が完全に収まらなくても軽度化していくこと、時間はかかったとしても必ず発達し、学ぶ力があることを大切に考えています。

      『知的障害の壁』と表現されているところに、お母様の様々な想いを感じます。
      私にも『知的障害の壁』が見えることがあります。
      しかし、私にはその壁を無くす力はありません。
      でも、その子ども達を見ると、彼らの中にある発達しよう、成長しよう、学ぼうとするエネルギーを感じます。
      ですから、私は彼らにとことん付き合い、彼らの想いとエネルギーへの後押しをしたいと考えています。
      私にできることは限られていますが、これが縁のあった方達に対する私の責務であり、過去に関わっていた重度の子ども達と真摯に向き合うことだと思っています。

      こちらこそ、想いを聞かせていただき、ありがとうございました。

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