2017年5月26日金曜日

ただ単に努力不足、経験不足

みね子が「お給料減ったんだし、仕事も1割くらい手を抜こうよ」と言っていたら、幸子は焼き芋をご馳走しようとは思わなかったはずですし、最後の夏さんとのシーンに、観ているものが心を動かされることはなかったでしょう。


世の中、自分のせいじゃなくても、うまくいかないことなんて山ほどありますし、頑張ったことがすべて報われるわけではありません。
でも、だからと言って、頑張ること、努力することが無駄なのかと言ったら、そんなわけはなく、そのひたむきな行為自体に自分を成長させる力、自分の人生を豊かにする力、そして、周りで見ている人達をより良い方向へと動かす力があるのだと思います。


「みね子には、いつかビーフシチューを自分の力で食べて欲しいな」
「私も、今日一日、仕事を頑張ろう」
と、ドラマを観ていた人が思うのですから、実際、側にそのような人がいたら、もっと大きな刺激になるはずですし、こういった人が増えることで、社会をより良くすることにつながっていくと思うのです。


私はずっと「努力」という言葉の前に「無駄な」という形容詞が付くなんて思いもよらなかったですし、そういったことを言う家族や友人、先生などが側にはいませんでした。
ですから、社会に出て、というか、特別支援の世界に入って、努力を否定する人、努力に無駄な努力というものがあると思っている人、「努力しなくても良いんだよ」と他人様に言う人を見て、意味が分からなかったのです。
努力や頑張り、そして経験にやらなくて良かったことなどありません。
こんなことを、普通の人には言わないことを発達障害の人達に言うもんだから、ちょっとしたことでも頑張ろうとしない人、「頑張ろう」と言うと、「無理です」「怖いです」と言う人、そもそも経験不足の人が増えていくのも当たり前だと思います。


よく相談で、「仕事をしたい」という成人の方からのお話があります。
「じゃあ、どんな仕事がしたいですか?できそうですか?」と尋ねると、「わかりません」と言い、「こんな仕事は」と提案すると、それは無理、あれは無理、何々ができないから&苦手だから無理、と言われる場合が多いですね。
本人側の課題として、背骨が育っていないことなどがありますが、「見えないものは、ない」というのもありますから、経験不足の影響が大きいと思われます。


じゃあ、その経験不足は、発達障害だからかと言われれば、そうではなく、「環境の影響でしょ」というのが多い。
臆病な家族に、ギョーカイ支援者が、本人が得ようとする経験に待ったをかけてきた、そんな姿が見えるのです。
本人がアルバイトをしようとすれば、「まだ早い」とか、「難しいんじゃない」とか、「障害に理解のある(?)作業所の方が良いよ」とか言い、経験から遠ざけようとする。
また本人が頑張ろうとすることに、「そんなことをやっても意味がない」「無理しちゃだめだ」「ほかの部分で支障が出てくるよ」と、否定するようなことを言う。


そんなこんなで、頑張ったという経験、そして経験自体が、同世代の人達とは大きく違ってきます。
そんな中で、同じように本人が就職を希望しても、それは無理なお話。
だから、みなさん、実際に就職するまでには、学校を出てから何年も、同世代の人達がすでにやってきた経験を積む時間が必要だったり、まずは「頑張らなくいいよ」の支援から離れる必要があったりします。


自閉症の人の中には、「見えないものは、ない」という人が多いのですから、支援の方向性としては、経験させない、努力させないはあり得ません。
「見ないものは、ない」人だからこそ、見えるような機会を増やしていく支援が必要ですし、それが選択肢の幅、可能性の幅を広げることにつながるのだと思うのですが…。
アルバイトの経験もない、家で特にお手伝いもしていない、そんな状態の人が、いきなり一般就労は難しいですし、何がしたいか、何ができるかを想像するのですら難しい。
一方で小さいときから、障害云々に関わらず、同世代の子たちと同じような教え、経験、頑張るところは頑張らせる、としてきた親御さんの子は、一般就労している人が多いですし、そうではなくても、より自立的で、選択肢のある生活を送っている人が多いですね。


「無駄な努力」「無駄な経験」などという人は、結果が出ない努力や経験のことを指しているような気がします。
でも、結果と結びつけること自体がおかしいですし、大体そういうような発言をする人は、結果が出る前に努力を止めている人ばかり。
結果が出るくらい努力しない人に限って、そのようなことを言います。
または、努力の方向性が間違っていることに気がつけない人、気がついても修正できない人ですね。
ですから、努力の意味を教えていくことは大事ですし、その前提として小さいときから努力をさせること、また大人自身が努力する姿を子どもに見せることが大事だと思います。


数日前のブログにも書きましたが、丸投げする親御さんは、親御さん自身が努力しようとしない、また結果の出ることだけしかしたくない、という人が多いと言えます。
また商売のために、固定資産化を目指し、「頑張らせない」「経験させない」という支援者もいますが、支援者自身が愛着障害を抱え、幼きときから「親に好かれようとしても無駄だった」「愛情を受け取ろうと頑張っても、そんな親がいなかった」という無力感、喪失感、空虚感を持ち続けているからこそ、そのように努力と経験の前に「無駄な」という言葉が浮かんでしまうのでは、とも思います。


発達障害があるから、努力しなくても良いわけではなく、頑張らなくても良いわけではありません。
発達障害があるから、経験しなくてよい経験などないはずです。
努力の仕方や頑張りの方向性、経験の積み重ね方に支援が必要かもしれませんが、決して努力や経験自体を取り上げることが支援ではないですね。
「社会の理解ガー」ってやっても、家の中で悶々としてても、支援者の勧めるままに軽作業をしてても、就職先は降ってはきませんし、必要な力が身につくわけでもありません。


足りないのは、社会の理解でも、支援者の数、予算の額でもなく、ただ単に努力と経験だと思いますし、そのような人には直接伝えるようにしています。
また努力しない、できないのなら、努力している人、頑張っている人のことをとやかく言うんじゃない、とも併せて言うようにしています。

2 件のコメント:

  1.  共感しました。事例提供させていただきたいと思います。
     我が家の自閉症息子(23歳)には、できそうなお手伝いはどんどんやらせて、「ありがとう」「助かったよ」と言って育ててきました。で、養護学校から施設にかけて、実習もたくさんさせていただいて、本人も「仕事したい」というので、「どんな仕事がいいですか?」「今まで経験した中で何がいいですか?」と聞くと「なんでもやります!」と言うので、的がしぼれないということはありました。でも、今年、そのモチベーションを保ったまま、パートですが、いまの病院の厨房の仕事に就職できました。

    〉臆病な家族に、ギョーカイ支援者が、本人が得ようとする経験に待ったをかけてきた、
    〉そんな姿が見えるのです。
     経験不足については、私も話させていただいています。親や支援者が、この子はできないと決めつけてやってあげてしまうから、本人はやってもらうのが当たり前になっている。「できないんじゃなくて、経験したことがないだけのことが多いんです」と。

    〉障害云々に関わらず、同世代の子たちと同じような教え、経験、頑張るところは頑張ら
    〉せる、としてきた親御さんの子は、一般就労している人が多いです 
     この「頑張らせる」「努力させる」ということについては、お手伝いに「ありがとう」と言ってきただけで、それがモチベーションを高めて、おそらく本人は頑張ったとか努力したとかという意識はないように思っています。頑張ってやったのではなく、ほめてもらうことがうれしいのでやりたくてやった、という感じでしょうか。
     「仕事」というと、「ほんとはやりたくなくても、やらざるを得ないもの」という職業観があるような気がしますが、息子にとっては、「自分が活躍する場面」として捉えていると思われます。

    〉丸投げする親御さんは、親御さん自身が努力しようとしない
     私は、「うちの息子の一般就労はムリ」という空気を醸し出す養護学校教師に「この子は練習すればできます」という実績を作って見せつけようと思い、練習させて、ひとりでバスを乗り換えできるようにしました。卒業後、息子の就労に乗ってこない施設職員に、路線バス-ローカル線-新幹線-ローカル線-路線バスで、3時間かけて約100㎞離れた家と施設のグループホームを、自力で行き来できるように練習しました。
     学校や施設が協力的でないなら、「こっちで、できることをやります!」って。
     私も、親に対して「学校任せ、施設任せ」にしないようにと言っています。任された側は、「預かっていればいいだけか」ということで、預かり保育や固定資産化になってしまうと思います。

     「社会の理解」については、それを認識した人が、自分が利用するために必要なところ、レストランでもホテルでも交通機関でも役所でも不動産屋等々でも、繰り返し、不自由しているところをアピールしていくしかないと思います。1回だけ挑戦して、「ひどい目にあったブツブツ…」と言って「もう行かない」となれば、「なんか対応考えた方がいいのかなぁ」と思ったのがそのうち「それきり来ない特殊事例みたいだからいっか」となってしまいます。それでは、世の中は変わりません。
     理解を得るためには、相手が理解するように努力するしかないわけで。その努力がイヤなら、社会の理解がなくても障害息子が社会をわたれるようにするしかないわけで。
     でも、「自閉症を理解してください」といくら説明しても、自閉症の人を見たことない相手に伝わるかどうか。私は、それができるのは本人しかいないと思っています。
     本人が、社会というか人混みの中で、一般の人に理解不能の行動を起こしたときに初めて、それを見た人が問題意識を持つわけで、そこでどういう演出をすれば効果的か? と考えればいいのかな?と。
     私の考えでは、説明よりは本人を見せるのが先。だから、本人を社会に出して、必要な場面があれば説明に行く。さらに必要なら謝罪する。
     あやまるのは親の覚悟、社会へのチャレンジは本人の成長課題。

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    1. taimyumachineさんへ

      貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。

      『あやまるのは親の覚悟、社会へのチャレンジは本人の成長課題』
      まさにその通りだと思いました。

      実際に謝る場面に遭遇するかどうかは別として、最初から「謝りたくない」という姿勢の親御さんがいますね。
      「何かあったら、私が責任取ればいいんだし、一緒に謝ればいいんだし」という覚悟がある方は、どんどんお子さんを社会の中に出していき、そこで貴重な体験をさせています。
      これまたよくある相談で、「じゃあ、実際に社会の中で…」というと、「それは無理かもしれない」「何か問題起こしたら困る」「パニックになったらどうしよう」と言い、実践の場に出ていくことを拒否される親御さんが多いです。
      結局、何かあったら責任をとるという覚悟もなければ、とにかく問題を起こさないでほしい、起こさなければそれでOK、という考え。
      これでは、ずっと親元から離れられませんし、将来の選択肢、可能性は狭まるばかりですね。
      このような自立の芽を摘むようなことをしている一方で、「社会の理解ガー」って、そりゃないだろ、って思います。

      青いお祭りは、「自閉症の理解を」と言っているわりに、当事者の方が参加していませんし、限られた、主催者の主張をそのままオウム返ししてくれる人しか出しません。
      当事者の方にスピーチさせるのも、事前にチェックが入るなんて、おかしな話です。
      これでは、一般の人には偏った情報しか伝わらず、「辛いのは分かったよ。でも、私は関わりたくない」といった感想を持つのが自然です。
      結局、当事者の顔が見えないのに、知識と情報、それも偏ったものばかり伝えられても、啓発なんかになるはずはないのです。
      一般の人は、誰も積極的に自閉症の知識を得たいとは思っていませんね。

      一番の啓発は、社会の中で共に生きる、ということ。
      そのためには、幼いときからきちんと経験を積み重ね、自分のことは自分でできるように学び、成長していくことが必要ですね。
      そういったことが身についていない人は、いくら周りが理解しようとも、社会に出ることはできませんから。
      息子さんが病院の厨房で一生懸命働き、共に働くスタッフ、その姿を見た人から理解の輪が広がっていく…これこそが本当の啓発活動ですね!
      新しい職場が、息子さんの「活躍の場」になることを応援しています!!

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